中岡望の目からウロコのアメリカ

2005/4/17 日曜日

”聖者(セイント)”になる方法を教えます:高まるヨハネ・パウロ2世を聖者に推す声

Filed under: - nakaoka @ 8:01

この1週間、多忙なスケジュールが続きブログを書く時間が取れませんでした。先週の火曜に書いて以来のブログになります。今回は少し変わったテーマを取り上げることにします。4日に書いたブログの中でCNNの番組の中で「ユダヤ人のラバイが、ユダヤ教には聖者を選ぶという伝統はないと語ったことが印象に残った」と書きました。しかし、カトリック教にとって、”聖者(セイント)”は極めて重要な意味を持つのです。先週、アメリカで行なわれたカトリック教徒を対象にする世論調査では、大半の回答者が「ヨハネ・パウロ2世を聖人にすべきである」と答えているのです。カトリック教の場合、聖者を選ぶには複雑なプロセスが必要です。その条件の1つに、「最低、二度、死後に奇跡を行なうこと」というのがあります。正直、その条件を知ったとき、私は少し驚きました。本ブログの中で政治と宗教の関係について何度か触れましたが、今回は聖者を選ぶ手続きを説明することで、西欧社会の宗教の持つ一面を書いてみたくなりました。ただ、私はカトリック教徒でもなく、宗教の専門家でもないので、細かな部分で誤解があるかもしれませんが、その場合はご容赦を。

具体的にどんな人物かは知らなくても、多くの人は”セント・バレンタイン”という名前を聞いたことがあるのではないかと思います。カトリック教の世界では、”セイント(聖人)”とついた聖職者がたくさんいます。ただ、聖者になるのは聖職者ばかりではありません。フランスのジャンヌ・ダルクも聖者の1人です。ちなみにジャンヌ・ダルクが聖者に列せられたのは1920年で、実に死後500年かかっています。カトリック教会が「列聖」した人の数は約3000名に登っていると言われます。1978年以降、列聖が行なわれた件数は280件以上あります。ですから、非常にたくさんの人々が聖者として審査されていることになります。

列聖は英語では”canonization”といいます。列聖は、聖者を選ぶ正式な手続きのことです。この手続きに合格しないと”聖者”として正式に認められることはありません。ただ、昔は教会の正式な列聖の手続きが設定されていなかったため、実際にカトリック教の世界で聖人と呼ばれる人が何人いるか不明です。

聖者になる最初の条件は、その人物を知る地元のカトリック教徒や神父からの推挙が必要です。勝手にバチカン(ローマ法王庁)が聖者を決めるのではなく、聖者候補を良くしる人々の意見が重視されるのです。要するに推薦者が必要なのです。正式な列聖の手続きが決まる前は、かなり大雑把に聖者が決められていたようです。ただ、そうなると聖者の数のインフレが起こります。先に触れたように、今までに3000名を越える人物が聖者の対象になったのですから、もし中の半分の人が聖者と認められているとすれば、膨大な数の聖者がいることになります。そこで10世紀にヨハネ15世が、聖者になるための条件を設定しました。それは、死後5年を経ないと列聖の手続きを始めないというものです。要するに、聖者の候補と目される人は人望が厚いのが普通で、死の直後は人々はどうしても感情的になり、必要以上の聖者に推挙する可能性があるからです。少し頭を冷やして、本当にその人物が聖者にふさわしいかどうかを判断するには、死後5年くらいは必要だという判断なのでしょう。最も最近、聖者として認められたケースは1983年で、それを決めたのがヨハネ・パウロ2世でした。

具体的な手続きは、次のようになります。まず教徒などが教会に、死後5年たった人物を聖者候補として推挙します。その要請を受けて司祭が聖者候補の調査を開始します。どのような人物であったのか、聖者としてふさわしい実績があるのかどうか詳細に調べます。そして、その調査結果をバチカンに送るのです。この報告を受けて、バチカンは神学者や枢機卿によって構成される「Congregation for Cause of Saints」という委員会を設置します。この委員会で、候補者が聖者にふさわしいと判断すると、法王は候補者が”尊者(venerable)”であると宣言します。ここまでが、聖者を選ぶ第一ステップです。これだけでは聖者にはなれないのです。このとき、従来は、列聖調査審問検事が置かれ、この手続きをチェックしました。この列聖調査審問検事は英語で”devil’s adovocate(悪魔の代弁者)”と呼ばれます。要するに、悪魔の立場に立って、候補者が本当に聖者にふさわしいかどうか審問するのです。この英語は現在でも良く使われる言葉で、議論をするときにわざと意図的に反対の議論をするような人物をdevil’s adovocateといいます。ただ列聖調査審問検事は、1983年にヨハネ・パウロ2世によって廃止されました。

第二ステップは、”列福(beautification)”として認めるための手続きになります。候補者を列福するためには、候補者が死後、少なくとも2つの”奇跡”を行なったことが証明されなければなりません。どの宗教でも”奇跡”は重要な意味を持つようです。これはある意味では、宗教の宿命かもしれません。それ以上に、私が興味を持ったのは、奇跡を認定するプロセスが聖者を選ぶ重要なステップになっているということです。しかも、奇跡は候補者が死んだ後に行なわれたものでなければならないのです。ただし、宗教的な大義のために殉死した候補者の場合、奇跡を行なったかどうかは問題にされません。奇跡を行なうということは、候補者が神との間の仲介者として、神に代わって奇跡的なことを行なったと見なされるのです。奇跡とは、たとえば病人とか怪我人を回復させるような行為です。それは、「聖書」の中でキリストが行なったことです。キリストは病気を治したり、歩けなかった人を歩けるようにする”奇跡”を行なっています。バチカンは、奇跡とは病気などが奇跡的に回復させるような行為だとみているようです。聖者になるには、キリストと同じように奇跡を行なう必要があるのです。

おそらく多くの読者は、この”奇跡”という発想がなかなか受け入れられないのではないかと思います。最も新しい例を挙げるとすれば、マザー・テレサの例があります。彼女はどんな奇跡を行なったのでしょうか。1つは、アメリカでフランス人の女性が交通事故を起こし、肋骨を何本か折ったのですが、マザー・テレサのメダルを身につけていたために傷がすぐに癒えたというものです。もう1つは、パレスチナの少女の夢にマザー・テレサが現れ、その少女のガンが治ったというものです。この2つの異例な出来事は、バチカンによって奇跡と認められました。ただ、何でも奇跡になるわけではなく、バチカンの中に異例な出来事が奇跡かどうかを検討する専門家で構成される特別委員会が設置され、検討されます。さらに神学者による評価が行なわれ、最終的に奇跡を行なったかどうかが判断されます。さらに司祭と枢機卿が集まり、再度、奇跡かどうかのチェックが行なわれます。こうした手続きを経て、2003年10月20日にマザー・テレサは列福とされたのです。繰り返しますが、列福とは死後に奇跡を行なったと認定されることです。

いずれにせよ、聖者になるには、こうした複雑な手続きが必要なのです。ヨハネ・パウロ2世を聖者にする声が強くなっていると書きました。バチカンの関係者によれば、10月から審査が始まる可能性があると言われています。新しい法王の最初の仕事は、ヨハネ・パウロ2世の聖者の認定手続きを始めることだといわれています。しかし、死後5年経たないと聖者の認定手続きを始めないというルールは、どうなったのでしょうか。実は、マザー・テレサの審査を始めるに際して、ヨハネ・パウロ2世はルールを変更しているのです。マザー・テレサが死んだのが1997年で、列聖の審議が始まったのは1999年です。もし、ヨハネ・パウロ2世の審査が秋にも始まるとすれば、彼は自らが変更したルールの恩恵を受けることになるのです。ただ、正式に聖者に認定されるには、かなりの時間がかかります。

少し複雑になったので整理すると、宗教的な人生を送り、英雄的な行為を行なったと認定されると「神の僕(Servant of God)になります。これによってまず”尊者(Venerable)”になります。次の段階で、奇跡を行なったことが認定されると”列聖(Beautification)”になり、”Blessed”と呼ばれるようになります。たとえば、聖母マリアはthe Blessed Virginと呼ばれています。そして最後が”列聖(canonization)”になります。資料を見る限り、マザー・テレサは”Blessed”の段階で、Blessed Mother Teresa of Kolkataと呼ばれています。まだセイント・テレサではないのです。ちなみにマザー・テレサはユダヤ人で、途中でユダヤ教からカトリック教に改宗した人物です。最初の書いてように、ユダヤ教にはカトリック教のようは聖者はいませんし、バチカンのような中央集権的な組織もないので、聖者のような公的な存在を認定することはないのです。

ヨハネ・パウロ2世の場合、早ければ10月から聖者認定の手続きが始まるのではないかと言われています。ただ、聖者になるには死後、最低2つの奇跡を起こさなければなりません。ヨハネ・パウロ2世が死んだのは4月2日ですから、これから奇跡が行なわれることになるのでしょうが、バチカンの関係者は「6ヶ月もあればヨハネ・パウロ2世が2つの奇跡を行なうのに十分だ」と言っています。

余談ですが、”パトロン・セイント”というのがあります。聖者のなかで特別な専門分野を持つ聖者(ちょっと変な表現ですが、「仕事の神様」「お金の神様」「健康の神様」がいるように、「病のセイント」というセイントが存在するのです)のことを”patron saint”といいます。信者は、自分の興味にあったパトロン・セイントにお祈りをささげます。ヨハネ・パウロ2世は、聖者の中かからインターネット・ユーザーやコンピューターのパトロン・セイントを指名することを計画していたといわれています。こうしたところは、素朴な民間宗教の色合いが残っているのでしょう。

”奇跡”を行なうこと、しかも死後に行なうことが聖者の必須条件であるということに読者はいろいろな感想があるのではないかと思います。そのことは別にして、本ブログで、何度もアメリカ社会における宗教の重要性、あるいは政治に与える影響について触れてきました。アメリカ人は”宗教的な国民”であると言っても、それだけでは何がなんだか分からないと思います。アメリカのカトリック教徒の大半の人々がヨハネ・パウロ2世を聖者に推しているということは、彼らにとって宗教がいかに生活の中に深く根をおろしているかを知る良いケースになると思います。もちろん、聖者の話はカトリック教徒の場合であり、他の宗派、他の宗教では、また異なった考え方があるでしょう。しかし、アメリカで世論調査をすると、90%以上の人が神の存在を信じているのです。こうしたアメリカ社会の一面を知っておくことも、アメリカを理解する重要な材料になるでしょう。

かなり急いで書いていますので、事実関係に誤認があるかもしれません。が、大きな流れは、上に書いた通りだと思います。

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