2011年2日目の風景
今日は、家人の実家へ。
池袋を通り、埼玉の郊外の家まで
小一時間の旅です。
家人の妹夫婦も来て大人6人で賑やか
に食事をしました。
乾杯の時に義父が、
「今年もみな元気でこうやって家族で
顔を合わせられることが、1番幸せな
ことだと思う。」
と挨拶。本当にそのとおり!と大きく
頷きました^^。
おせちは「美濃吉」。
「箱根駅伝」の往路を見ながら
伝統的なおせち料理をつまみ、
料理上手な義母の手料理の松前漬け
や田作り、大豆と数の子のあえもの、
セロリといかのあえ物などを沢山頂き
ました。
日本酒もかなり進むと、父が昔の話を
始めるのがお正月の恒例行事?ですが
今回も初めて面白い話が聴けました。
彼が就職活動をしたのは昭和28年(1953年)で、
三白景気もだんだん下火になった頃だったとか。
まず彼は「自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場」
に就職したのです。
ところが、自分と同じ年のエンジニアが、
技術書をドイツ語の原書で食い入るように
読みながら昼ごはんを食べている のを見て、
「とても将来の自分の居場所はない・・・」
と悟ったのだそうです(ちなみに義父は文系)。
「でな、親類のつてを頼り次に入ったのは
“ダイエー”だったんだよ。」と父。
私は、仕事柄「ダイエー→主婦の店→中内さん」
という図式が自動的に浮かぶので、
「なぜ??」と頭の中で沢山クエスチョンマーク
が飛んだのですが、
「ダイエー違い」で「大映」のほうだったのです。
新人で最初にやらされた仕事は、当時のトップ
スター市川雷蔵さんを、「炎上」という映画の
撮影後にホテルまで案内するお迎え役だったとか。
雷蔵さんは、移動時は、お付きの人を誰も付けず
1人で行動し、服装もどちらかというと地味だった
そう。
それで雷蔵だとは気づかずに、声をかけられず、
雷蔵さんは先に1人でホテルに到着してしまい、
お迎えの役目を果たせず、上司からこっぴどく
叱られたのだとか。
また、当時の映画会社の重役さんやスター達の、
想像を絶する羽振りのよさを聞いていると、
まさに戦後復興後の高度経済成長期にイケイケ
だった2社の社内の活気が伝わってきました。
50年後の日本の主力産業は一体何になっている
のだろう?
そんなことをふと思いながら、今年はもっと実家へ
足を運ぼうと決めた元旦2日目の夜でした。
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