ささやかなる宗教的雑感:カルヴァン著『真のキリスト教的生活』を読んで
睡眠不足の日が続いていますが、今日は久しぶりに朝寝をしました。お昼前に『選択』の編集者の電話で目が覚めました。来週月曜締め切りで、アメリカの「宗教と政治」の問題を書いて欲しいとの依頼でした。前々から興味あるテーマで、アメリカの宗教関連の本を買いあさっていました。現在のアメリカ政治の中で保守派のエバンジェリカルは政治的に大きな影響を発揮しており、その存在を無視してアメリカ政治を議論できません。大学の授業でも「宗教的観点を踏まえて分析しないとアメリカの政治と社会は理解できない」と教えています。本ブログでは私的なことは極力書かないことにしていましたが、ささやかな我が宗教的な感想を書いて見る気になりました。私は無神論者ですが、宗教を否定するものではありません。世俗的な宗派は拒否しますが、人には“宗教心”はあると思っています。本論に入る前に、まず『中央公論』8月号別冊(「日本経済の生存力」)に「世界経済の暗雲・オバマ・アメリカの挫折」と題する長い記事を寄稿しました。ぜひお読みください。中央公論のサイト(http://www.chuokoron.jp/2011/07/post_89.html)を参照してください。
昼過ぎに起き出してテレビを付けると国会審議が行われていました。野党議員が菅直人首相に対する質疑を行っている場面でした。質問の内容は揚げ足取りに終始し、自らの政策や哲学を語るものではありませんでした。「我が党ならどうするか」、「一政治家として自らはどう対応するのか」という視点はまったくなく、政府の失策を攻撃するものでした。さらに、その質問の中には過去の自らの政策に対する反省も自責の念もまったく感じられませんでした。この国では自分の哲学や宗教を語るのは“ダサイ”ことのようです。
高校時代に一生懸命に読んだのは鈴木大拙の禅宗の本でした。鈴木大拙全集は全て読み切りました。さらに『スッタニパータ』(岩波文庫『ブッダの言葉:スッタニパータ』)などの原始仏教にも興味を持ち、親鸞など日本の仏教者の本も何冊か読みました。おそらく自分の人格形成に最も影響を与えたのは禅宗だと思います。『スッタニパータ』で記憶に残っている話は、子供が死にかかっている母親がブッダに救いを求めにやってきます。するとブッダは「今までに死者を出したことのない家からお水をもらって来なさい」と言います。母親は、これで子供を救えると喜び、家々を回って水をもらおうとしますが、死者を出したことのない家などどこにもなかった。疲れ果て、絶望的な気持ちになった母親は、最後に死は避けることができないものだと気づくのです。そして穏やかな気持ちで子供を看取ることができたという話です(手元に本がないので記憶に誤りがあるかもしれませんが、その場合はご容赦を)。
仏教の「四苦八苦」(生・老・病・死の四苦と「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」の四苦)の思想を学びました。仏教を通して「執着しない生き方」を知りました(実行できたかどうかは別ですが)。また空海が訳した密教の教典「理趣経」なども手に取ったことがあります。そこに書かれている“性”に対する大らかさに惹かれました(男女の交わりこそ人を救うと書かれています)。また、梅原猛の一連の仏教関係の本も愛読書でした。自分の精神的なベースは仏教から出てきていると認識しています。
大学に入るとキリスト教に接する機会がありました。大学が国際基督教大学で、「キリスト教概論」は必修コースでした。成績の厳しいクラスでしたが、なぜか「A」を取った記憶があります。聖書も少しばかり読む機会もありました。しかし、最終的には仏教にも、キリスト教にも帰依することはなく、最初に書いたように無神論者です。ただ、世俗的な宗派には嫌悪感を抱いていますが、人には“宗教心”があると思っています。それは自分の“無力さ”を知ることから出てくるものだと思っています。ただ、大学時代にはマルクスやエンゲルスの本も読み、どちらかというと唯物論者であったと思います。ただ教条的な唯物論者ではありません。現在の自分の社会観、歴史観はマルクス的な唯物論とは一線を画していると思います。
ただ、いつも宗教が生活の中の重要な部分を占めているわけではありませんでした。しかし、自分の中に傲慢さや卑屈さ、無力感を感じて落ち込んだときには宗教に戻ってきました。20代や30代には大きく落ち込むことが何度かあり、そのたびに宗教書(主に仏教書)を読み漁ることもありました。どこかに原点回帰を求める気持ちがあったようです。多くの場合、煩悩は執着心から生まれてきました。執着心を断つことで、人生に対する気持ちを新たにしようとしたようです。「本当に苦しかったら全てを捨ててしまえば良い。そうすれば無から新しい活路が開かれる」という気持ちになりました。
ここ数日、少し気分の晴れない生活が続いていました。今日の午後、1冊の本を持って喫茶店に行きました。その本はジャン・カルヴァン(John Calvin)の『黄金の小冊子 真のキリスト教的生活』(有馬七郎訳・創英社刊)です。16世紀の宗教改革の指導者の一人です。現在のアメリカのエバンジェリカルの思想的起源はカルヴァンの教えにあるといわれています。なおエバンジェリカルは「福音派」と訳されます。キリスト教徒にとって「福音」は神の救いの言葉であり、アメリカのエバンジェリカルは「聖書」は神の救いの言葉であり、「聖書」に従って生きることは正しいことだと考えています。「福音」は英語では文字通り”good news”と書かれることもあります。
カルヴァンは「福音」を「福音は理性と記憶のみによっては把握されず、魂全体を所有し、心の内なる奥底にまで浸透するときに完全に理解される」と書いています。また宗教についても、「宗教が私たちの心を変えることもなく、私たちの習慣に浸透することもなく、私たちを新しい人間に変えることもないなら、それは無益である」とも書いています。宗教改革でルターは政治問題や社会問題に対して距離を置きましたが、カルヴィンは積極的に政治や社会問題に関わることを主張しています。アメリカのエバンジェリカルが政治に対して影響力を発揮しているのも、こうしたカルヴァンの思想を反映しているのかもしれません。
カルヴァンは「自己否定」を主張しています。神の栄光を求めるには、現世の自分を否定することが必要だと説いています。そして彼はパウロの言葉を借りて、「慎み深さ」「正しさ」「敬虔」が必要だとも指摘しています。「慎み深さ」は「現世の所有物を純粋に倹約していること、そして貧困に耐えることを意味する」と書いています。人生にとって「謙虚さ」も必要であり、鋭い人間観を提示しています。
「私たちの中に高く評価していると同じ才能が他の人々の中にあるのを見ると、あるいは、私たちの才能よりも優れているのを見ると、私たちは他の人々が優越しているのを認めたくないばかりに最高の悪意を持って、それらを軽んじ、貶す。もし他の人々が何らかの悪意を持っていると、私たちは、それらを厳しく、激しく批判することで満足せず、それらを憎らしげに誇張する。憎しみは、私たちが人類の誰よりも抜きん出ようと望み、平凡な運命に属さない人間だと考える時に傲慢に成長する。私たちは、他の人々を私たちより劣る者として一層激しく、傲慢に蔑む」
親鸞の「悪人正機説」と似た主張もしています。「神は、民衆の賞賛を得ようとする野心を持つ人々、あるいは自尊心や厚かましさで満たされている心を決して喜ばれず、そういう人びとよりも“悔い改めた”売春婦や取税人たちのほうが天国に近いと語っている」。アメリカのエバンジェリカルは“ボーン・アゲイン・クリスチャン(born-again Christian:生まれ変わったキリスト教徒)”とも呼ばれています。様々な苦悩を経て、本当の福音を知った者こそ、本当のクリスチャンだという考え方です。ブッシュ前大統領は”ボーン・アゲイン・クリスチャン“だと言われていました。彼はアル中から立ち直り、敬虔なクリスチャンになった人物で、大統領就任後、ホワイトハウス内でキリスト教の定期的な勉強会を開いていました。いずれにせよ親鸞とカルヴァンには似たような人間観を抱いているのは興味深いところです。
さらに人間の弱さについて、カルヴィンは「多くの人は万事が楽しく、うまく行っている限りは、他の人々の中に親しさを見いだしている。しかし、何かに邪魔されたり、苛々させられたりしても、それでもなお上機嫌でいられる人はどれだけいるだろうか」とも書いています。さらに、「幸福に生活していくためには、誤った野心と自己愛という邪悪を私たちの心から根こそぎ引き抜かなければならない」「誰であろうと他の人々の栄誉と名声に注意を払うならば、私たちは穏和と陽気な気分をもってばかりでなく、上品さと友情をもって振る舞うことができる」とも指摘しています。
カルヴァンはパウロの次の言葉を引用しています。「愛は忍耐強く、親切である。愛は妬まない。愛は自慢しない。愛は高ぶらない。愛は不相応に振る舞わない。愛は自分自身のものと求めない。愛は容易に怒らない」。パウロの言葉を受け、カルヴァンは「私たちは他の人びとの利益を求めよう。いや、他の人びとのために自分の利益を積極的に犠牲にしよう」と訴えています。
人は病気になって初めて健康の大切さを感じるように、心が萎えたり、病んだり、生きるエネルギーを失いかけたとき、初めて人生の意味が見えてくるものです。宗教は人生哲学とは違いますが、正しく生きる指標を提供してくれるものです。時には現実から一歩引き下がって、人生を眺めてみるのは悪い事ではありません。人生絶好調のときほど、人は誤りを犯しやすいものです。自らを謙虚に見直すことは重要だと思います。
2件のコメント »
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目からウロコのアメリカを興味深く拝見しまた。先生と同じで、宗教心なる心情の存在は認めていても小生も無神論者を自認しています。
米国における福音派の現実関与のことを初めて知りました。また、キリスト教の社会的実践についてのカルヴァンとルターの対照的な見解の違いを解説された点も小生に新知識でした。お礼を申します。
利他(altruism)は心理学でも流行りのテーマです。管見ですがゲーテ「フウァスト」の最後に辿り着いた心境がやはり愛他的行動だと記憶します。カルヴァンの人間観察眼の鋭さに抜かりがないないのですね、我が国の諺に「隣に蔵が建つと腹が立つ」とあります。
コメント by きくち れいじ — 2014年9月5日 @ 23:01
ブログ拝見して、大変参考になりました。また新知識を得ることができました。
1つ、アメリカにおける福音派の勢力拡大と政治関与を知りました。
2つ、キリスト教徒の政治・社会問題に対する二人の宗教改革者、カルヴァンとルターの対照的な姿勢も新知識でした。
宗教に関しては小生も先生とほぼ同じ見解です。太古から現代にいたるまで人間には「宗教心」なるものがあると思います。しかしの既存宗教には帰依する気なんかは出ない。強いて言うならば「太陽信仰」でしょうか。太陽がなければ人間社会もしたがって文明なんかもあり得ないことは確かな真理です。
利他行動(altruism)はゲーテの「フウァスト」の最後に辿り着いた心境だったと記憶しています。カルヴァンは人間観察眼も抜かりがありませんね、諺にある「隣に蔵が建つと腹が立つ」の人間心理に言及しているからです。
ブログ、ありがとうございました。
コメント by きくち れいじ — 2014年9月5日 @ 23:22