中岡望の目からウロコのアメリカ

2005/3/14 月曜日

「大統領を作った男、カール・ローブ」:ブッシュ政権の仕掛け人の素顔と野望ー『中央公論』3月号に寄稿した記事

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政治は、政策と人物が重なりあって展開するものだと思います。したがって単に政策論を論じるだけでは、政治的現実を十分に理解することはできないと思います。政策を担う人物にも焦点を当てる必要があります。しかし、人物論ばかりを強調すると、政策の重要な意味を見失ってしまうことになります。その両者をバランス良く評価することが、政治を評価する上で非常に重要なことではないかと思います。2つのプリズムが重なりあったところに、政治の本当の姿が立体的に浮かびあがってくるのでしょう。今回は、『中央公論』3月号(2月10日発売)に寄稿した原稿を転載します。ちなみに「中央公論」の編集長の話では、この記事は「読売新聞」の論壇でも少し紹介されたそうです。同誌に掲載した分よりも少し長いものになっています。紙幅の都合で最初の原稿を若干割愛したためです。前のブログでカール・ローブについて何度も触れてきました。が、彼に関して詳細を書きませんでした。それは、この原稿があったからです。カール・ローブはブッシュ大統領の盟友であり、ある意味で人生を共にしてきた人物です。本原稿を執筆後、彼は副首席補佐官に就任し、さらに影響力を増しています。また、今日発売の時事通信社の『世界週報』3月22日号は「動きだした新ブッシュ政策:ネオコンと一線を画した強硬外交」という特集を組んでいます。その中で私は「ライス長官の下で米外交政策はどう変わるか」という巻頭論文を寄稿しています。そちらもぜひご一読ください。

二人の若者の出会い
もしこの世界に「親和力」というものがあるとするなら、おそらくこの二人の若者の間に間違いなく「親和力」が働いたのかもしれない。時は一九七三年一一月二一日、感謝祭の前日である。ワシントンにある駅ユニオン・ステーションで一人の若者がボストンから来る若者を待っていた。彼のポケットには自動車の鍵が入っている。やがてホールで待つ彼のところに場違いなカーボーイハットを被り、ジーンズを履き、ボンバージャケットを着た若者が近づいてきた。それから三〇年後、駅のホールで待っていた若者はテレビのインタビューに答えて、「今でも彼にいつあったのか正確な日時を覚えている」と語っている。

待っていた青年の名前はカール・ローブ。一九五〇年一二月二五日のクリスマスに生まれ、二人が最初に遭遇したときは二二歳であった。どう見ても知的とはいえないボストンからやってきた若者は、ハーバード大学経営大学院の学生のジョージ・W・ブッシュであった。一九四六年七月六日生まれの彼は、その時、二七歳であった。ローブがポケットに入れていた車の鍵は、当時、共和党全国委員会の委員長であったジョージ・W・H・ブッシュ(以下、ブッシュ・シニアという)から息子に渡すように頼まれたものであった。このハーバード・ボーイは、感謝祭をワシントンで家族と一緒に過ごすためにやってきたのである。

時が変わり、二〇〇一年一月。大統領になったブッシュは、記者団を前にローブを自分の政治顧問に任命すると発表した。その時、彼は「彼がいたからこそ自分はテキサス州の知事に選ばれたし、またこうしてアメリカ合衆国大統領にも選ばれた」と、集まった記者に説明した。さらに時間は流れ、二〇〇四年一一月三日。二期目の当選を果たしたブッシュは勝利宣言の演説の中で「彼はアーキテクトである」と最大級の賞賛をローブに送った。“アーキテクト”とは「考案者」あるいは「製作者」を意味するが、大文字で始めると「創造主」を意味する。ホワイトハウスの資料では小文字で表現されているが、ブッシュ大統領は心の中で“創造主”という思いを込めて敢えてこの単語を使ったのかもしれない。七三年に会ってから実に三〇年以上に及ぶ二人の関係は途絶えることなく続いてきたのである。

『ニューズウィーク』誌は「これほど大統領と長期にわたって関係を維持し、大統領に対してこれほど大きな影響力を持っているローブのような人物は、歴史上、存在したことはなかった」と書いている。また、アメリカのマスコミは、ローブを「共同大統領」「選挙で選ばれていない最も影響力のある人物」と呼び、彼のホワイトハウスでの影響力の大きさに注目している。

まったく違う人生の歩み
二人はまったく対照的な人生を歩んできていた。ブッシュはテキサス州の名門の家に生まれた。祖父は上院議員やイギリス大使を務め、大統領を夢見ながら果たせなかった。その思いを息子のブッシュ・シニアに託していた。その息子はテキサス州で石油企業を経営して巨万の財をなし、まさに大統領に挑戦しつつあるときだった。ブッシュは東部の名門高校を卒業し、祖父が理事を務めていたエール大学に入学。卒業後、ハーバード大学経営大学院に進んでいた。決して成績優秀な学生ではなかったが、まぎれもないアメリカの上流社会に属し、エリート中のエリートと呼ばれても不思議ではない存在であった。

もう一人の青年ローブはコロラド州デンバーで生まれた。父は地質学者であったが、彼が一九歳の時に家族を捨てて失踪する。失踪直後、ローブは父が実の父でないことを知らされる。ローブはその時を述懐して、「本当に手に持っていたカップを落としてしまった」と語っている。そして、八一年に母がネバダ州レノで自殺をするなど、幸せな家庭から遠い状況で育ってきた。しかも、ブッシュと会った当時、ローブはユタ大学を中退していた。

家庭は必ずしも宗教的ではなかったが、ローブは生粋の保守主義者であった。九歳の時に「ニクソンを支持する」と語っていた。壁には「目覚めよ、アメリカ!」と書かれたポスターを貼り、いつもそれを眺めていた“愛国少年”であった。

このまったく接点のない二人の若者に共通なものがあったとするなら、それは東部エスタブリッシュメントに対する嫌悪感と、六〇年代の学生運動に象徴されるリベラリズムの隆盛に対する反発であった。二人は、その思いを共有しながら、人生を共に生き、共に戦っていくことになる。

ブッシュ・シニアはローブの恩人
こうした経歴を見る限り、二人が遭遇する可能性はゼロに近かった。やがてアメリカ社会を大きく変えていくことになる二人を引き合わせたのは、ブッシュ・シニアであった。ユタ大学に入学したローブは、保守派の学生運動にのめり込んでいく。六〇年に「カレッジ・リパブリック」という学生の政治組織に加わる。この組織は、アメリカにおける政治的な保守派の復興を信じて組織化されたものであった。ローブは、七三年から七七年までカレッジ・リパブリカンの会長を務めている。七三年に会長選挙の結果を巡って対抗馬ロバート・エッジワースとの間で紛争が起こる。彼らは、その調停を共和党全国委員会に求めた。その時の共和党全国委員会の委員長がブッシュ・シニアであった。彼はローブを支持し、ローブは会長のポストに就くことになる。

ローブは、ブッシュ・シニアに再度救われている。カレッジ・リパブリカンの活動家としてローブが学生たちに盗聴の仕方を教えていたと『ワシントン・ポスト』紙でスキャンダルを報道し、FBIが調査に乗り出すという事件が起こった。当時、ウォターゲート事件が暴露され、盗聴に対して世論は過敏になっていた。その事件をもみ消したのが、ブッシュ・シニアであった。この事件が、後々までダークなイメージとしてローブに付いて回ることになるが、それは後述する。ローブはブッシュ・シニアに二度、救われたのである。ローブの異常とも思えるブッシュ・ファミリーへの忠誠心は、こうした経緯があるのかもしれない。

大統領を目指すブッシュ・シニアは、ローブを選挙運動の最初のスタッフとして採用する。当時、ブッシュ・シニアはドナルド・レーガンと共和党大統領候補の指名を争っていた。ローブは七七年にテキサスに移り、ブッシュ・シニアの政治団体ポリティカル・アクション・コミティ(PAC)で働いていた。そのPACの責任者はレーガン政権で主席補佐官と国務長官を務めたジェームズ・ベーカーであった。レーガン政権が成立した八一年に、ローブは政治コンサルト会社「カール・ローブ社」を設立する。これによって、それまでの政治に素人の学生運動から本格的な政治の世界に一歩踏み出すことになる。

この会社で彼はダイレクト・メールによる調査活動を行なうという独自の分野を開拓していく。潜在的な共和党支持者をダイレクト・メールで掘り起こし、政治献金を促すという手法である。その手法によってローブは各選挙区の隅々まで熟知していた。それが彼を“選挙の神様”にしていく。八六年以降、彼の会社が引き受けた選挙の結果は、三四勝七敗であった。そのため、政治家を目指す者はまずローブの会社にやって来た。候補者の写真撮影などでオフィスは活気に溢れ、まるでハリウッドのような雰囲気であった。

当時、テキサス州は民主党が圧倒的に強い州であった。だが、ニクソン、レーガンと共和党の大統領が南部の保守層に大きな影響を与え、保守層が共和党へ動き始めているときであり、それが共和党の選挙ブローカーであるローブに幸いした。

ブッシュ・ファミリーという後ろ盾を得て、さらに七八年の知事選挙でテキサス州で共和党のビル・クレメンツの選挙スタッフに加わったことで彼の知遇を得て、ローブはテキサス州の上流社会へ足を踏み入れることになる。その後、ヒューストンの上流階級の女性と結婚した。その結婚は長く続かなかったが、彼はテキサス州の上流階級の一員として認められるようになった。

「ブッシュを大統領にする」
一九九〇年、運動を請け負っていた候補者の選挙事務所のテーブルに座っていたローブは、同僚の政治コンサルタントのケン・ルースに自分の夢を語っている。それは、ブッシュを大統領にするという夢であった。ルースによれば、彼はブッシュを大統領にするための計画を詳細に語ったという。ローブがブッシュ・シニアにテキサスに呼ばれた理由の一つは、酒浸りのブッシュの世話をすることでもあったといわれている。従って、テキサスに来てからも二人の交流が続いていたのは間違いない。しかし、ブッシュは、大統領の父親の威を借りて政界に出ることを渋っていた。しかし、ローブはブッシュを説得し、九四年の知事選挙に立候補させるのである。

相手は民主党の現職知事アン・リチャーズで、ブッシュに勝ち目はないと思われていた。選挙運動を熟知しているローブは、ブッシュの教育から始める。選挙公約を書いた一〇枚ほどのノート・カードを渡し、ブッシュに「政策と自分を混同するな」と忠告する。おそらくそれは、演説で自分の感情や価値観を語るなという意味であろう。

投票日の数日前、ローブは汚い手(ダーティ・トリック)を使う。多くの有権者に世論調査員だと称する人物から電話がかかってきた。そして「スタッフの多くが同性愛者である知事に投票しますか」と問いかけたのである。それは暗にリチャーズ知事がレスビアンであると示唆するものであった。当時、リチャード知事は積極的にマイノリティや同性愛者をスタッフに採用するリベラルな知事として知られていた。世論調査に優れた能力を持つローブは、“プッシュ・ポール”と呼ばれる手法使って意図的に“誤った情報”を有権者に流したのである。南部は保守的な地域で、この種の“囁き作戦”は絶大な効果を発揮する。もちろん、ローブは「自分は関与していない」と全面否定しているが、カレッジ・リパブリックの盗聴問題で見せたようにローブには常に暗い陰が見え隠れしていた。

この手法は、別の選挙でも使われた。二〇〇〇年の共和党の大統領候補を選ぶ予備選挙で有力候補ジョン・マッケイン上院議員がブッシュをリードしていた。最初の予備選挙が行なわれたニューハンプシャーの投票ではマッケインの圧勝であった。だが、その直後から彼を中傷する噂が流れ始める。知事選でリチャード知事がレスビアンであるという噂が流されたように、ベトナム戦争で捕虜から帰還した英雄マッケインは捕虜生活で精神を病んでいるという噂が急に広まったのである。

大統領選で使った汚い手
ローブの選挙戦略は明確である。対立候補の弱点を攻撃するのではなく、逆に強い点を攻撃するのである。リチャーズ知事の場合も、本来なら高く評価されるべきリベラルな人事を攻撃することで、それをマイナスに変えてしまったのである。マケインの場合も、ベトナム戦争のヒーローというプラス・イメージをマイナス・イメージに変えてしまった。その手法は、今回の大統領選挙でも使われた。民主党のジョン・ケリー候補の“売り”はベトナム戦争の英雄であった。これに対して「スイフト・ボート・ベテラン・フォー・ツルース」という団体が、突然ケリーは嘘をついているとテレビ・コマーシャルを流し始めたのである。その情報のかなりの部分は根拠のないものであったが、繰り返し流される情報に有権者のケリーに対する考え方は間違いなく変わっていった。ローブは「この団体と自分は関係ない」と主張しているが、この団体の活動資金の出所はローブと親しいテキサス州の富豪ボブ・ペリーであった。このネガティブ・キャンペーンによって、ケリーのベトナム戦争の英雄のイメージは地に落ちたのである。

こうしたローブのやり方は、ここで挙げた例に留まらない。選挙に勝つためなら何でもするというのがローブであり、それが彼に常に“ダーティ・トリック”を使う人物との印象を与えている。だが、彼は決して自分が関与したという証拠を残さないのである。

こうして勝ち目がないと言われたテキサス州知事選挙でブッシュは勝利を収めたことで、ローブの“野望”は実現に向かって一歩踏み出したのである。

ローブの夢は、ブッシュを大統領にすることであった。ブッシュが知事に当選すると、ローブは大統領選挙を視野に入れて活動を始める。彼がしたことは、学者やジャーナリスト、政治家をオースチンに呼び、ブッシュに会わせたことである。この中からブッシュのブレーン集団が形成されていくことになる。ブッシュが大統領になったとき、このブレーン集団から多くの政府のスタッフが登用された。たとえば、第一期政権で安全保障担当顧問を務め、第二期政権で国務長官に就任したライスは、このときのブレーン集団の一人である。また、第一期政権で通商代表部代表を務め、第二期政権でライスの下で国務副長官に就任するロバート・ゼーリックも、このブレーン集団のメンバーであった。

ローブはブッシュ・シニアが九二年の大統領選挙で再選を果たせなかった現実を詳細に見ていた。それは保守的なキリスト教右派の票を獲得できなかったためであった。そのためローブが行なったことは、この宗教的な保守層に食い込むことであった。ブッシュ陣営とキリスト教右派の橋渡しをしたのが、ラフル・リードであった。彼は八九年から九七年まで保守派のキリスト教組織「クリスチャン・コーリション」のエクゼクティブ・ディレクターを務めた人物である。また、彼は八二年から八四年までカレッジ・リパブリカンの全国委員会委員長で、いわばローブの後輩であった。

ローブはリードを通じてクリスチャン・コーリションに接近する。二〇〇〇年の大統領選挙では、クリスチャン・コーリションはブッシュ陣営に多額の政治献金を行なっている。この見返りにローブは、リードをエネルギー商社エンロンの顧問に推薦している。同時に、エンロンはブッシュの最大の政治献金者でもあった。ローブは、エネルギー関連企業を中心に集金マシーンを作り上げていった。こうして彼は巧みにブッシュを大統領にする基礎を固めていったのである。そして最大の敵と目されていたマケインも“囁き戦術”で退け、大統領選挙に臨むことになる。

二〇〇〇年の選挙の教訓
ローブは、民主党のゴア候補との争いで圧勝すると予想していた。だが結果的には票の集計で紛糾したフロリダ州で最高裁の判断でかろうじて勝利を収め選挙人の数でゴアを上回り当選を果たしたものの、一般投票の獲得票数ではゴアを下回ったのである。そのためブッシュには常に“裁判所が選んだ大統領”というイメージが付いて回ることになる。
二〇〇一年一二月にローブは保守派のシンクタンクであるアメリカン・エンタープライズ・インスティチュートで演説を行なっている。その中で彼は「エバンジェリカルとかファンダメンタリスト(原理主義者)と称する人は一九〇〇万人いる。しかし、そのうちの四〇〇万人は大統領選挙で投票所に行かなかった」と述べている。その言葉の中に「この四〇〇万人が動いていればブッシュは楽勝であったはずだ」という思いが込められていた。ローブは、この層を動員できるかどうかがブッシュの再選の鍵を握ると考えていたのである。

ローブの「ブッシュ再選プロジェクト」はブッシュが大統領に就任した時から始まっていた。ローブの選挙戦略を一言で言えば、「徹底的に相手を攻撃する」というものである。対立点を鮮明にすることで支持基盤を拡大するというのが、彼の戦略であった。ローブが選んだ道は、二〇〇〇年の選挙で獲得しようとした穏健派を断念し、保守的なキリスト教徒を獲得することであった。二〇〇〇年の選挙では“コンパッショネート・コンサーバティブ(思いやりのある保守主義)”をスローガンに保守層にアピールするだけでなく、冷酷な保守派のイメージを変えることで中道穏健派の取り込みを図った。

しかし、二〇〇四年の大統領選挙を睨んだローブの戦略は、潜在的な共和党の支持基盤を徹底的に掘り起こすことであった。そのために敢えて「同性婚」や「中絶権」といった本質的に妥協できないテーマを選挙課題に含めたのである。敵と味方を明確に峻別し、“眠れる宗教票”を掘り起こすことを狙ったのである。ローブにとって妥協は敗北を意味していた。リベラル派と徹底的に戦う姿勢を鮮明にしたのである。それはアメリカ社会を妥協のできない分裂に導く危険性もあった。しかし、ローブは敢えて、その危険な戦略を取ったのである。それは後述するが、ローブが見ていたのは、二〇〇四年の大統領選挙ではなく、さらに遠くの世界だったからである。

潜在的な共和党票を掘り起こすためにローブは大胆な戦略を採用する。まず選挙の結果を左右するのは二〇〇〇年の大統領選挙で接戦となった州であると考えた。彼は一八州を“バトルグランド州”に選び、資金と選挙要員を集中的に投下した。ダイレクト・メール手法で得たノウハウを使って「マイクロ・ターゲット・プロジェクト」を始め、潜在的な共和党支持者の四〇〇〇万人のリストを作成、徹底したメール戦略を展開したのである。また、一三〇万人のボランティアを組織化し、有権者登録を促進させた。

保守的なキリスト教層への働きかけをさらに強化した。ブッシュ大統領はキリスト教団体の指導者と頻繁に会合を持ち、「ブッシュは彼らを代表する候補である」というイメージを送り続けた。ローブは、スタッフにエバンジェリカルの活動家からかかってくる電話は直接自分につなぐように指示している。さらに毎週水曜日に保守派の宗教団体フリー・コングレス基金で開かれるコンサーバティブ・コーリションの昼食会に必ず政府要人を派遣するなどきめ細かな接触を続けた。
こうした中でローブの戦略に追い風が吹いた。一つは民主党の大統領候補の一人のハワード・ディーンが「自分はエバンジェリカルの牧師の説教をもう聴く気はない」と発言したことであり、もう一つはマサチューセッツ州最高裁が同性婚を合法とする判断を下したことだ。これが政治的に消去的だったエバンジェリカルの反発を生み、選挙での大量動員につながった。

また二〇〇一年九月一一日の連続テロ事件も、ブッシュにローブの戦略を支援する効果を果たした。ブッシュ大統領はテロリズムとの戦いは超党派で取り組むべきで政争にすべきではないと語っていた。だが、ローブは二〇〇二年一月にテキサス州オースチンで開かれた共和党全国委員会の会合で「テロリズムは共和党にとって政治的な資産である」と述べ、テロとの戦争を選挙の争点にすることを明らかにしたのである。すなわち国民を守ることができるのは強い大統領であり、共和党であるとアピールする方針を明らかにしたのである。その効果は二〇〇二年の中間選挙で明らかになった。普通だと、与党は中間選挙で有権者から厳しい判断をくだされるものだが、共和党は議席を増やしたのである。

ローブの計画は、まずブッシュを大統領にすることであった。その次に、ブッシュ大統領の再選を果たすことであった。ケリー候補に対する徹底したネガティブ・キャンペーンを展開し、ケリーの信頼性を完全に打ち砕いてしまった。ローブは言葉を作り出す名人でもある。二〇〇〇年の選挙では「今パッショネート・コンサーバティブ」という言葉を作り出した。二〇〇四年の選挙では日和見主義であるという意味の「フリップ・フロッパー」という言葉を使って徹底的にケリーの人格攻撃を行なった。ローブの選挙哲学の中に「たとえそれが嘘でも繰り返し言い続ければ真実になる」というのがある。まさに、その通りの戦術を展開したのである。さらに「スイフト・ボート・ベテラン・フォー・ツルース」と名乗る得体の知れない組織を使って、ケリーのベトナム戦争でのヒーローというイメージを完全に打ち砕いてしまった。

二〇〇四年の大統領選挙はローブが二〇〇一年に描いた通りになった。エバンジェリカルは大挙して投票所に向かい、家族の安全を願う子持ちの主婦たちは“強い大統領”に投票したのである。そして、ブッシュはフランクリン・ルーズベルト大統領以来初めて自らの再選を果たすと同時に、両院で与党の議席を増やしたのである。また、一般投票でも八八年の大統領選挙以来初めて過半数を獲得したのである。

さらに影響力を強めるローブ
「第二期ブッシュ政権の下でホワイトハウス内でのローブの権力はさらに強まることは間違いない」と『USニューズ&ワールドレポート』誌は書いている。ローブは息の掛かった人物をホワイトハウスの主要なポストにつけているほか、各省にももれなく配置している。たとえば、大統領のコミュニケーション担当補佐官のダン・バートレットはローブの会社の従業員であったし、国内政策補佐官のマーガレット・スペリングスもテキサス州時代からのローブの影響下にあった人物である。ライスも、キサス時代からローブの薫陶を受けている。

その影響力はホワイトハウスに留まらず共和党にまで及んでいる。二〇〇五年一月に共和党全国委員会委員長に就任したケン・マールマンは元ホワイトハウスのコミュニケーション・ディレクターで、ローブと共に大統領選挙の指揮を執り、ローブの影響下にある人物である。またローブ自身も共和党のナショナル・パーソネル・ディレクターとして共和党候補者の選考の責任者を務めている。今回の選挙でもローブは息のかかった人物を立候補させている。たとえば、ミネソタ州のノーム・コールマン議員、サウスダコタ州のジョン・チューン議員、フロリダ州のメル・マルチネスなどは、彼が選んだ議員である。こうした議員を通して、共和党内部にもローブは影響力の拡大を図っているのである。

ローブのホワイトハウス内での権限は曖昧である。が、実際は国内政策だけでなく、外交政策にもかかわっている。オフィス・オブ・フェイス・ベイスト・アンド・コミュニティ・イニシアティブのディレクターを務めたジョン・ディルリオ・ペンシルバニア大学教授は、ローブのことを“メイベリー・マキアベリ”と呼んでいる。“メイベリー”はテレビ番組に登場する小さな架空の田舎町で、ホワイトハウスにたとえられている。同教授は、ローブをメイベリーでマキアベリのように振舞っていおり、「ホワイトハウスのすべての政策はローブによって決められている」と語っている。

ブッシュ政権がイラク戦争を始める決断をしたのは、ポール・ウオルフォウィッツ国防副長官とローブが大きな役割を果たしたといわれている。特にブッシュ大統領にイラク戦争の必要性を納得させたのは、ローブとであった。ローブは世論の風の微妙な変化を読んでいた。オサマ・ビン・ラディンを発見できないことに対する国民の不満を敏感に感じ取っており、またホワイトハウス内のネオコンなどの強硬派のフセイン体制打倒の主張の強まり見て、ブッシュ大統領に決断を迫ったのである。また、外交政策についてこんなエピソードもある。二〇〇三年五月に韓国の盧武鉉大統領がホワイトハウスを訪問したとき、ブッシュ大統領と同席したのはライスとローブの二人であった。単に政治顧問という範囲を超え、ローブはホワイトハウスのあらゆる局面にかかわっていた。その一つにホワイトハウスの人事と裁判官の任命があった。

ローブの共和党長期支配の戦略
ローブの野望はブッシュ大統領の再選に留まるものではなかった。彼はさらに先を読んでいるのである。政治コンサルタントのルースは「ローブはいつも状況を戦略的に考え、六歩先を読み、彼の心は他の人とは違ったレベルで働いている」と語っている。彼が見ている世界は、共和党がアメリカを長期にわたって支配し続ける世界である。

ローブの愛読書は歴史書と政治の本である。その彼が最も尊敬するのはウィリアム・マッキンリー大統領とマキアベリである。マッキンリー大統領は一八九六年に僅差で民主党の候補者を破り、一九三三年にフランクリン・ルーズベルト政権が誕生するまで四〇年も続いた共和党支配体制を確立した人物である。ローブは「アメリカには永続的に多数を維持した政党は存在しなかった」と、“共和党一党支配体制”の確立を目指していることをあからさまに語っている。言葉を変えれば、アメリカの“テキサス化”が、彼の野心なのである。

ローブがテキサス州に行ったとき、同州は民主党の州であった。しかし、現在は共和党の州になっている。連邦議会の議員は、上院が二人、下院が三二議席のうち共和党が二〇議席を占めた。また八〇年代は州最高裁の判事全員が民主党であったが、現在は九名の判事全員が共和党になっている。知事も共和党であり、州議会も共和党が多数派であるなど、共和党が支配する州なのである。この二〇年間で、テキサス州は完全に変わってしまった。

ローブは、ブッシュの指導の下で共和党を作り変え、そして共和党の政治基盤を確立し、かつてルーズベルト大統領が構築したニューディール連合に匹敵する保守連合を構築する政治的野心を持っているのである。そのためにローブは徹底的に民主党と対立し、その支持基盤の切り崩しを狙っている。その対象になっているのが、民主党の資金基盤となっている弁護士と労働組合とユダヤ系アメリカ人である。第二期ブッシュ政権の政治課題の一つに民事訴訟制度の改革があるが、これは賠償責任額に上限を設定し、企業の競争力を高めると同時に弁護士の収入に歯止めを掛けるのが狙いである。これは既にテキサス州で実施していることがらである。

また、官公労組の切り崩しも重要な政治課題になっている。官公労組は民主党の重要な支持基盤であるが、行政改革による公務員削減と、国土安全法で試みたように官公労組の団体交渉権を制限しようとしたのも、そうした狙いがあったからである。また、ユダヤ系アメリカ人は人口の二%しか占めていないが、民主党の政治資金の四〇%は彼らの政治献金である。そのため、ローブはブッシュ政権のイスラエル政策を転換し、ユダヤ層の切り崩しを図ってきた。マクラレン報道官は「イスラエルには自国を守る権利がある」と語っているなど、従来以上にイスラエルよりの政策を示している。

また、裁判官の任命も中絶権に反対する“プロ・ライフ”の保守派の任命を狙っている。中絶権を制限することは、共和党の有力な支持基盤であるエバンジェリカルを納得させるためには絶対必要なのである。ローブは「人類の歴史を数人の裁判官が覆してしまうのは認められない」と、中絶権を認めた最高裁に不満を表明している。そのためには、テキサス州で実現したように最高裁の裁判官に共和党の裁判官を任命する必要がある。これも第二期ブッシュ政権の大きな課題となっている。

ローブの愛読書はマキアベリの「君主論」である。彼は、その中の「君主は本当の友人の時か、あるいは敵のときに尊敬される」という言葉が好きであるという。彼は、民主党との妥協を排し、共和党の一党支配体制の確立するために民主党と徹底的に対立する戦略を取ろうとしている。ローブにとって「政策」と「政治」は同じものであるという。政策は政治的目的を達成する手段に過ぎない。

愛想が良く、物腰は柔らかく、無邪気な顔をしたローブは、冷徹な戦略家の顔も持っている。常に敵か味方かをはっきりさせ、目的を達成するためなら手段を選ばないというのが、もう一つのローブの顔である。「親和力」で結ばれたブッシュとローブは、本当にアメリカ社会を変えようとしているのかもしれない。

既に何度も触れたように第2期ブッシュ政権は外交政策で転換を見せつつあります。しかし、その全体像はまだ十分に見えてきているわけではありません。その意味で『世界週報』誌に書いたライス論は、1つの参考になると思います。カール・ローブは、ネオコンと言われる人々と違ってイデオロギー過剰なところがありません。彼にとって最も大切なことはブッシュ大統領の政治基盤を強化することです。再選のない大統領のことを”レーム・ダック”といいます。そのため、第2期政権になると政府の求心力が急速に弱まるものです。ですが、この点で第2期ブッシュ政権は従来の政権とやや違うようです。本原稿を読まれると、その当たりの雰囲気も分かってもらえるのではないかと思います。

ちなみに本原稿では触れませんでしたが、ブッシュ大統領はカール・ローブに2つのニックネームをつけています。1つは「ボーイ・ジーニアス(天才少年)」で、もう1つが「Turd Blossom」です。Turd はテキサスの牧場の馬や牛の糞を意味します。したがって、「タード・ブロッサム」とは「馬糞の中に咲く花」という意味になります。ちょっと刺激的なニックネームですが、ローブは必ずしも、これを嫌ってはいないようです。どう解釈すればいいのでしょうか。政治という現実(=馬糞)の中に咲く花という意味なのでしょうか・・・。テキサスでは、特に悪い意味で使われてはいないようです。

2件のコメント

  1. Turd Blossomはすごいものがありますね 世界週報はいつも見ています ゼミの先輩の伊奈さんはじめお知り合いが登場することが少なくありません
    「親和力」で結ばれたブッシュとローブは、本当にアメリカ社会を変えようとしているのかもしれないという点は今後も注視していきたいところです

    コメント by 星の王子様 — 2005年3月17日 @ 02:09

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