中岡望の目からウロコのアメリカ

2005/6/1 水曜日

経済から見た日中関係:どう不毛な政治的対立を克服すべきか

Filed under: - nakaoka @ 2:12

1週間ほど、新しい記事をアップすることができませんでした。超多忙であったうえ風邪まで引いてしまい、大変な週となりました。この1週間、ずっと考えていたことがあります。それは「日中関係のあり方」です。小泉首相の靖国神社参拝を巡って日中関係は戦後最悪の状況に陥っています。この間、多くの政治家や学者、評論家の意見を聞いてきました。中国側の靖国問題への言及は”内政干渉”だと声高に叫ぶ政治家や学者の声を聞いていると、暗澹たる気持になりました。もうこの国では論理は通用しないようです。あるのは居丈だけしい”ナショナリズム”だけのようです。あるべき論理は本ブログで書きます。また、これからの日本の指導者に求められる課題は、東アジアにおける安全保障と経済的な繁栄をどう維持するかということだと思います。世界は多くの自由貿易圏に切り取られつつあります。そうした世界経済の大きな流れの中で開放的な東アジア経済圏を構築することは、日本のみならず隣国にとっても重要なことです。もちろん、それがすぐにできるとは思いません。ただ、東アジアの安定と繁栄のために日本の指導者が何をし、何を提案すべきかが、今、求められているのだと思います。決して政治的挑発を繰り返し、意図的に関係を悪化させることではないはずです。そうしたことを含め、下に現在の日本と中国が経済的にどのような関係にあるか説明することにします。中国経済の現状を分析した論文」の最後に転載しましたので、そちらもご一読ください。

まず、最近の日中関係の問題を、論的に整理してみたいと思います。小泉首相は戦時中の日本の行為に関してインドネシアのバンドンで”謝罪”しました。それは海外で非常に大きなニュースとして伝えられました。それほど、この問題が海外では重要な問題として受け止められているからでしょう。それが村山首相の謝罪文を繰り返すことであっても、自らの声で語ったわけですから、その意味は重要です。単に今まで通りの”政府公式見解”を繰り返したという次元の問題ではないと思います。”謝罪”するということは、戦争に関する責任を認めたということを意味します。当然、その謝罪の中には戦争を引き起こした歴史的、政治的、社会的な状況に対する判断も含まれているはずです。もし真剣に歴史を問うなら、戦争に対して靖国神社が果たした役割が何であったかという判断も含まれているわけです。また、宗教法人としての靖国神社が現在戦争に対してどのような理解を持ているかも問われなければなりません。一宗教法人がどのような考えを持とうが、それを否定することはできません。おそらく、そうした歴史や現状に対する事柄をすべて理解した上で首相が靖国神社に参拝しているのだと思います。そして首相は、それを”個人的信念”の問題であると主張します。誰も”個人の信念”の問題に立ち入ることはできません。ただ、そうであるならば”謝罪”した行為と靖国神社に参拝することの間の論理的な整合性を公的に説明することが必要です。「それは私の信念です。中国側は分かってくれるはずです」と繰り返すだけでは、何の説明にもなっていないのです。中国が「謝罪を言葉だけでなく行動で示せ」と主張するのも当然です。

もし首相が、靖国神社を含め日本に戦争責任がないと”本心”で考えているのなら、決して”謝罪”してはいけないのです。国民は、そうした首相の思想や態度に基づいて支持するかどうかを決めることができます。しかし、論理矛盾を平気で展開すること、あるいはまったく問題が存在しないかのような口ぶりで済まそうとすることは、国民を欺くことになります。ドイツではニュールンベルグ裁判で戦犯が裁かれました。日本では東京裁判で戦犯が裁かれました。そしてサンフランシスコ平和条約で戦争問題は決着が付きました。それが戦後の民主日本の出発点となったのです。日本は開かれえた民主主義の国として再び国際社会で認知されたのです。様々な制度、法律も、その理念に基づいて構築されてきました。しかし、そうした事実を否定する議論もあります。戦後民主主義が間違いであたっと主張する声もあります。そうした立場からすれば、今ある制度は認めることができない制度なのでしょう。小泉首相がどのような”個人的信念”を持とうが、それは彼自身も道徳的、思想的問題であって、別に否定する筋合いのものではありません。しかし、一国の首相が”個人的信念”といういわば聖域のようなところに逃げ込み、明確な議論を避けるのは、誰にとっても好ましいことではないでしょう。また、個人的な利害で首相が動いてはいけないのと同じように、個人的な信念だけで行動を起こすのも決して好ましいことではないでしょう。

これから100年の日本の行く末を考え、本当の日本の国益が何であるかを考えながら、自らを律するというのが成熟した政治家の取るべき態度でしょう。もし自分の”個人的信念”が東アジアの安定と繁栄を達成するという”より大きな目的”と”より大きな国益(national interest)”と齟齬をきたすような場合、指導者はどう行動し、発言すべきなのでしょうか。極めて挑発的な発言と行動を繰り返すことは、一種の挑発行為であり、別の意図がそこにあるのではないかと感じざるを得ません。やや舌足らずの主張で、いろいろ批判がくるかと思います。しかし、私は「論理の一貫性」と「行動の一貫性」が一番重要であると考えています。政治家に求められていることは、”国益”を懸命に考え、そのために賢明な行動を取ることです。

蛇足ですが、小泉首相の発言を聞いていていつも感じることは、「なんと言葉が虚しくなってしまったことか」ということです。かつて日本語には”言霊”が宿るといわれた時代があります。首相の詭弁に満ちた言葉を聴き続けていると、限りなく心が虚しくなっていきます。彼は自分の矛盾を指摘されると、常に次のように答えるのです。「あなたは矛盾だというが、私は矛盾だとは考えていません」。「あなたはあなた、私は私、それはカラスの勝手でしょ」という論法は、詭弁を越えて理性的な誠実さを欠くものではないかとさえ感じます。

本当に戦没者を偲ぶなら、また戦争で亡くなった多くの民間人や外国人に心から哀悼の意を表現するなら、私的な”宗教法人”にその役割を委ねるのではなく、国家として戦没者の国営墓地を作ることが、小泉主張の”個人的信念”に最も近いことではないのでしょうか。しかし、彼が”個人的信念”の背後になんらかの政治的意図を持っているのなら、彼は決して、そうした提案を実現しようとはしないでしょう。繰り返しますが、ここでは小泉首相の”個人的信念”が正しいかどうかを議論するものではありません。ただ、彼がそうした思想を持っているなら、それに沿った論理的な行動と説明を行なうべきだと言っているのです。そして、その考えに沿って国民が自分たちの指導者にふさわしいかどうか判断すればいいのです。ただ、今の彼の言動には余りに矛盾と欺瞞が多すぎるのです。

話題を日本と中国の経済の問題に移します。政治的な緊張は別にして日本と中国の経済関係はもう切り離すことができないほど緊密になっています。簡単な統計データを見るだけで、それは一目瞭然です。

2004年の貿易統計です。アメリカはずっと日本の最大の貿易相手国でした。2004年の日本の貿易総額(輸入と輸出の合計額)はアメリカが1892億ドルとトップですが、中国との貿易額も1680億ドルとアメリカの水準に迫ってきています。しかし、日本の輸入だけを見ると、アメリカからの輸入額は624億ドルであるのに対して、中国からの輸入は942億ドルとアメリカを上回っているのです。中国は日本の最大の輸入国なのです。貿易収支でみれば、日本の対米貿易収支は634億ドルの黒字ですが、対中貿易収支は204億ドルの赤字となっています。

市場シェアで見てみましょう。日本の対米輸出シェア(日本の輸出に占めるアメリカ向けの割合)は、2004年は22.4%でした。1990年の31.5%と比較すると、アメリカ市場は依然として最大の市場ではありますが、その重要性は確実に低下してきています。一方、中国向け輸出シェアは、2004年は13.1%でしたが、90年の2.1%と比較すると飛躍的な増加を示しています。東アジア(中国、韓国、台湾、香港)向けの輸出シェアは、46.9%に達しています。日本の輸出の半分近くが東アジア向けなのです。東アジア諸国の貿易を通した経済関係は、他のどの地域よりも深まっているのです。

輸入シェアはどうでしょうか。中国製品が占める日本の輸入市場に占めるシェアは、2004年が20.7%でした。ここでも90年の5.1%と比べると飛躍的に高まっています。一方、アメリカ製品のシェアは、同じ期間に22.3%から13.7%にまで低下しています。東アジア全体のシェアは、45%に近づいています。要するに、輸出も輸入も約半分が、東アジアとの取引のなっているのです。中国の経済発展が進めば、さらにお互いの依存度が高まってくるでしょう。

いかに東アジア経済の一体化が進んでいるのかを示すもう1つ別のデータを示すことにします。韓国の対米輸出額は460億ドル、対中輸出額は500億ドルです。韓国にとって輸出市場としてアメリカよりも中国のほうが大きくなてちるのです。輸入はどうでしょうか。韓国はアメリカから260億ドル輸入しています。中国からは290億ドル輸入していますから、ここでも韓国にとって中国市場のほうがアメリカよりも大きいのです。台湾の場合はどうでしょうか。台湾から中国への輸出額は340億ドルです。アメリカへの輸出額は350億ドルで、少しですが対米輸出のほうが上回っています。ただ、伸び率でみれば、圧倒的に中国向けが増えています。輸入は、中国からが170億ドル、アメリカからが220億ドルです。ここでも額ではまだ台湾にとってアメリカ市場のほうがシェアは大きいですが、伸び率は圧倒的に中国からの輸入が増えています。95年の台湾の中国からに輸入はわずか30億ドルに過ぎませんでした。

資本の流れの統計も書いておきます。2003年に中国で行なわれた海外直接投資(海外の企業が中国で工場建設などの投資した額)は535億ドルでした。そのうち日本企業が投資した額は51億ドルです。韓国からが45億ドル、台湾からが34億ドルです。中国の一部である香港からは177億ドルで、この資金は華僑や台湾からの資金が含まれていると思います。アメリカの対中投資額は42億ドルで、韓国を下回っています。世界の投資は、かつてはアメリカに集中していました。2000年には対米投資額は3140億ドルにも達していました。2003年には300億ドルにまで減っています。これに対して対中投資額は2000年が410億ドルでしたが、2003年には540億ドルになっています。この額はアメリカを越えています。世界の資本は中国に集中しているのです。日本企業も多額の投資を行なっています。日本にも中国の資本が入ってきています。2003年に日本で行なわれた外資の直接投資は361億ドルでした。そのうち中国の投資額は31億ドルで、シェアは8.6%でした。

この数字は一面的かも知れません。しかし、明らかなことは東アジアは経済的な相互依存性は大幅に高まっているということです。これからの日中関係、日韓関係を考えるとき、こうした現実を無視することできないでしょう。残念なことに経済的には関係はかつてないほど密接な関係を構築するまでになているのに、政治的にはますます関係は後退しているのです。その理由を、私たちは本気で考えてみなければならないのではないでしょうか。東アジア経済が一体化してくることは、もはや避けられない現実なのです。また、それは好ましい現実でもあります。

日米関係(あるいはもっと直接的に言えば、日米同盟)を重視すべきだと主張する人は、それが両国の経済関係に大きな影響を及ぼすからだと指摘します。要するに日米外交関係が悪化すれば、日本は経済的に大きな影響を被るかもしれないからです。しかし、もやは日本にとって経済関係の重要さにおいてアメリカと中国に差はなくなりつつあるのです。将来的には、日本にとってアメリカ市場以上に中国市場が重要になることは間違いありません。とすれば、日中関係もアメリカとの関係同様、あるいはそれ以上に良好に維持すべではないでしょうか。ただイデオロギー的に中国に反発しているから日中関係は緊張してもいいとか、要するに中国は嫌いだから主張するのであれば、話は別かもしれません。しかし、日本の将来を考える指導者がそうした発想に陥るとすれば、悲しむべき現実でしょう。

安全保障を維持する最も有効な方法は、同じ政治的、経済的体制を持つことです。アメリカがどんなにドイツやフランスと対立しても、誰もそうした国の間で戦争が起こるとは思わないでしょう。それは長い時間をかけて共通の理解の枠組みを作り上げてきたからです。将来、なんらかの形で東アジア経済圏が現実の課題になってくることは間違いないでしょう。逆に言えば、日本がこれからも経済的な繁栄と平和を維持するためには、東アジア諸国の間での相互信頼を高める新しい枠組みを作り上げることが必要なのです。今、領土問題が日中、日韓で深刻な問題となっています。正直、通常の手段で領土問題を解決するのは不可能に近いと思っています。しかし、平和的な解決策以外は、膨大なコストがかかり、決して経済的、社会的、政治的に見合うものではありません。ヨーロッパ諸国は、そうした苦い歴史的経験を繰り返してきました。だからこそ、欧州統一を夢見た人たちは、欧州連合を作ることが多くの血を流してきた領土問題を解決する有効な手段だと考えたのです。

もし本当に東アジアの安全保障と経済的繁栄を真剣に考える指導者なら、本当に日本の100年の大計を考える指導者なら、迷妄に近い”個人的信念”にこだわり、日本の国益を損なうような言動はしないはずです。成熟した政治家に求められる資質は、相手の言い分に真摯に耳を傾け、自らを省みるという大人の対応ができることではないでしょうか。「問答無用」という言葉が使われた時代を思い起こしてみる必要があるのかもしれません。「関係ない」と相手の論議を黙殺するのも、「問答無用」と実質的には同じものだと考えます。

さらに蛇足ですが、「政教分離」(separation of church and state)の歴史的意味も含めて真剣に考えてみる必要もあるようです。これは西欧社会の歴史過程から出てきた思想ですが、近代国家の基礎であることに変わりはないと思います。また国家のために身を投じた人々を靖国神社という一宗教法人に委ねることも重大な問題があるのです。戦没者は全員が神道を信じているわけではありません。多様な宗教、多様な思想、多様な国籍を持った人々がいるわけですから、そうした人すべてを平等に弔うことこそ国家の責務なのです。もちろん、靖国神社に参拝する人がいても構いません。それは信教の自由と同じで、国の戦没者慰霊墓地と靖国神社が共存していても問題ではありません。しかし、国の指導者が戦争を肯定する一宗教団体に参拝するというのは、それが私人であれ、公人であれ、問題となるのは当然でしょう。靖国神社に参拝する政治家の中には、日本には民主主義が根付き、軍国主義化することはないと主張する人もいます。本当に、この国に民主主義が根付いているのでしょうか。どう考えても民主主義を否定するような動きが余りにも多く見られるのが現状ではないでしょうか。

長くなりましたが、中国経済の現状に関する記事を寄稿しましたので、ここに転載します。

世界経済の最大の攪乱要因となった中国経済

「現在、世界経済は大きな二つの軸を中心に動いている。一つの軸はアメリカ経済であり、もう一つの軸は中国経済である。かつて21世紀は日欧米の三極経済になると言われたことがある。だが今は日本経済と欧州経済は、米中経済の影に完全に隠れてしまった観がある」

「この10年、世界経済はアメリカ経済が作り出す膨大な需要に引っ張られてかろうじて成長を維持してきた。その代償がアメリカの膨大な経常赤字であった。もう一つの軸の中国経済も、この10年で世界経済の舞台の中央に駆け上り、主役を演じるまでになっている。もしアメリカ経済と中国経済の高成長がなかったら、世界経済は間違いなく失速していただろう。一人当たりのGDP(国内総生産)で見れば中国はまだ発展途上国の域を出ないが、その膨大な労働市場と消費市場を背景に世界経済の動向に大きな影響を及ぼすまでになっている」

「中国の経済成長戦略を一言で表現すれば、「積極的な設備投資を行いながら輸出主導で成長を実現する」ということである。いかに中国が設備投資主導の成長を遂げてきたかは、GDPに占める設備投資の比率を見れば一目瞭然である。2000年のGDPに占める設備投資の比率は37%であった。しかし、2004年には、その比率は実に46%にまで高まっている。2005年には50%を越えるとの予想もある」

「その一方で同じ期間に個人消費は48%から42%に低下している。先進国の場合、個人消費がGDPに占める比率は通常60%以上であることから判断すれば、中国の設備投資依存の成長は極めて特異なものともいえる。また、積極的な設備投資による生産能力の拡大に伴いGDPに占める輸出比率も急速に高まっており、2000年には20%を下回っていたのが2004年には35%にまで上昇している」

「設備投資を支えてきたのが、積極的な外資導入政策と低賃金であった。膨大な潜在市場を持つ中国に生産拠点を置くことは、もはや国際企業にとって避けられない選択となっている。同時に、多くの企業は国際市場で価格競争に勝ち抜くためには低廉な部品調達を可能にする国際的な“サプライ・チェーン”を作り上げていく必要があり、その軸となったのが中国であった」

「また中国の労働賃金は1時間当たりで0.4ドルと、アメリカの16ドルとはまったく比較にならないほど低く、メキシコの4ドルと比べても10分の1の水準に過ぎない。しかも教育水準は比較的高く、良質な労働力が豊富であるとなると、外国企業が中国に殺到するのも当然といえる」

「設備投資主導の成長戦略を取った結果、中国は常に国内で供給過剰の状況に置かれることになった。まだ十分に国内の消費市場が育っていないため、過剰生産は当然のことながら輸出に拍車を駆けることになる。低廉な労働力を利用した中国の製品は欧米企業の製品に比べると価格が安く、それが海外市場での価格設定に大きな影響を与えた」

「「低廉な輸入品が流入してきたことでアメリカ企業は価格設定力を失った」(グリーンスパン連邦準備制度理事会議長)のである。いわば中国が震源地となって世界的な“デフレ現象”が引き起こされたのである」

「過去10年間、中国では賃金はほとんど上昇していないが、最近になって変化が見え始めている。特に沿海州での熟練労働者の労働賃金は上昇のテンポを速めている。既に沿海地域の最低賃金はタイと同じ水準にまで上昇している。また中国企業は社会保険料や医療費などの多くの給与外費用の負担(こうした負担は賃金の40~50%にも相当する)を強いられており、中国企業の中にもまだ低賃金の内陸部や中国よりも賃金水準が三〇%は低いベトナムなどへ工場を移転する動きもみられる。しかし、まだ内陸部には膨大な低賃金労働者のプールが存在し、それが全体の賃金水準の上昇に歯止めをかけている」

「中国の“輸出ドライブ”を可能にしたもう一つの要因として、自民元をドルに釘付けにする通貨政策を指摘することができる。90年代半ばから続いていたドル高相場は2002年頃からドル安に転換する。ドル相場が下落することは、同時に元相場の下落を意味する。対米輸出では為替相場の影響を受けないが、円やユーロなど他の通貨に対して元相場は下落したのである。グローバルな観点からいえば、元安相場も中国のデフレ輸出の大きな要因となったといえる。中国の通貨政策がアジア諸国も間接的に影響を与え、世界的なデフレ現象を促進した面も見落とせない。ドル高修正が急速に進んできたにもかかわらずアジア諸国の通貨の実効相場はほとんど変わっていないのである。アジア諸国は国際市場で中国製品と競合することが多いため、その通貨政策も中国の通貨政策の影響を受け、その通貨も過小評価される状況にあり、それが輸出価格にも反映し、世界的デフレ現象を支えているのである」

「中国政府は変動相場制への移行を“公約”しているが、時期については明言を避けている。このためアメリカ議会では元相場の切り上げを求める保護主義的な動きが強まっている。現在、議会で審議中の「グラム・シューマー法」では、中国が元切り上げを拒否した場合、中国の全輸入品に27。5%の課徴金を課すことを求めている。法案が成立する可能性は低いが、遠からず中国が元相場の調整を行なわなければならないことは間違いない。それは中国の輸出品の価格上昇を意味する。とすれば、中国の“デフレの輸出”という状況に変化が出てくるかもしれない」

「もう一つ中国経済との関連で忘れてはならないのが、原油などの一次産品と鉄鋼やセメントなどの中間財への影響である。過剰な設備投資を継続するため中国は大量の鉄鋼やセメントなどの建材などを大量に輸入している。日本の製鉄業界が息を吹き返したのも中国向け輸出が増えたためである。鉄鋼市況の上昇の背後には中国の旺盛な需要があることは間違いない」

「さらに中国が決定的な影響を与えたのが原油市況である。従来の原油価格上昇は政治的な出来事による一過性の出来事が原因であることが多かったが、最近の原油価格上昇は需給構造の変化による影響が大きい。すなわち産油能力や製油精製能力の制約に加え、中国の恒常的な需要増が原油市況に大きな影響を与えているのである。中国は急激な経済成長でエネルギー不足が深刻な事態を招いている。2004年のエネルギー需要は15%増えており、これに対応して原油輸入量も34%以上も増えている。原油の輸入量は過去最高の水準に達し、今後も増えていく見通しである」

「現在、中国のエネルギー消費の3分の2は石炭によって調達されているが、環境問題もあり、石炭に依存し続けることはできない。最近の特徴では天然ガスの消費量が急速に増えているが、原油依存の構造は今後さらに強まる懸念もある。中国政府は四項目のエネルギー対策を実施しているが、あまり大きな効果は期待できないのが実情である。
設備投資と輸出をテコに高成長を図る戦略を転換しない限り、中国経済が“デフレの輸出”や一次産品市場に対する大きな攪乱である状況は基本的には変わらないだろう。今年の経済成長も高水準が予想される。モルガンスタンレー証券は、最近、中国経済の成長率予測を7.8%から9.5%に引上げた。中国が今後もさらに生産能力を高めていくことは間違いない。中国経済の動向が世界経済に与える影響はますます大きくなっていくだろう」

今、世界が注目しているのは、中国経済が不動産バブルと投資バブルをどう克服し、安定した経済成長プロセスに向かうかです。中国経済の混乱は、日本経済にも大きな影響を及ぼします。日中の政治問題と同時に、両国の経済状況にも目が離せない状況が続きそうです。

最後に、今、日本は重大か岐路に立っていると思います。日本が本当に東アジアの安全保障と経済的繁栄で指導力を発揮できるのかどうか、それがこれからの日本の100年の運命を決めることになると思います。偏狭なナショナリズムによって、そうした可能性を塞いではならないのです。過去において、いかに偏狭なナショナリズムが国家を誤らせてきたか、歴史が嫌というほど教えているところです。しかし、ナショナリズムは麻薬のようなもので、その威勢の良い言葉は一時にせよ人々を魅了してしまうところがあるのです。だからこそ忍耐強い論理展開が必要なのです。だからこそ論理と理性に誠実である指導者が必要なのではないでしょうか。10年か20年経って歴史を振り返ると、日本は一番重大な時に最悪の指導者を選んでしまったということになるかもしれません。そうならないことを祈るばかりです。

蛇足:
6月3日付けの『朝日新聞』の1面に政治部長の書名で「首相は国益を語れ」という大きな主張の記事が載っています。もし興味のある方は、私のブログと読み比べてみてください。面白い比較ができるかもしれません。

11件のコメント

  1. 最近よんだ論説のうちで第一級のものと感動をうけました。透徹したビジョン、簡明な統計、熟考された論理的構造卓抜です。お風邪だそうですが御自愛専一に。私のまわりにいるシニアの人たちにも是非進めたいのですが活字にする予定はお有りですか。

    コメント by nakauchi@qf6.so-net.ne.jp — 2005年6月1日 @ 12:30

  2. いくつか質問させてください。
    1.中国は対日関係を改善させる気があるとお考えですか?
    2.中国のナショナリズムにどう対応すべきだとお考えですか?
    特に、日本のナショナリズムと異なり、党や国家が教育や報道により政策的に誘発させていることはどう考えますか?
    3.中国は、日本と中国が対等平等な地位での関係を結ぶことを許すとお考えですか?日本が国際社会で指導的な地位に着くことを許容するとお考えですか?
    4.中国が資源や交易路を確保するため、海洋進出を顕在化させていることに日本はどう対応すべきだとお考えですか?

    コメント by 善蔵 — 2005年6月1日 @ 16:31

  3. 中国の事を分かって書いてるとは思えない内容だ
    中国の悪い部分や問題から全て目を逸らしてるのはなぜ?
    まるで中国の代弁者の様だ

    コメント by ahorasii — 2005年6月1日 @ 16:39

  4. まったくもって賛成なのです。中岡さんの語られる当然の話を、そうじゃないと受けとめる世論?が問題です。同居する78歳の義母と話していても、最後は感情の問題に突き当たります。論理を受けつけないのです。私は中国や北朝鮮が嫌いだと・・・すべてにこのバイアスがかかっているのです。こうした感受性の総体が日本を再び危険な道に進めるかもしれません。
    論理が通じないところが、根深く手ごわいのです。どうしたらいいのでしょうか?

    コメント by ane — 2005年6月1日 @ 22:12

  5. 善蔵さんの質問と重なりますが、中国のナショナリズムにどう対処すべきか論じられていないのが、中岡さんの主張の弱いところだと思います。
    実際、呉儀副首相のドタキャン事件の影に、人民解放軍内部の対日強硬派の動きがあるという記事も出ています。軍とナショナリズムが結びつくと危険なことは、日本の過去の歴史を見ても分かるでしょう。
    今後、中国の偏狭なナショナリズムにどう対処していくのかが、日本のみならず世界の大きな課題になると思います。もちろん日本側は偏狭なナショナリズムをもってそれに対処してはいけないと思いますが。

    コメント by Baatarism — 2005年6月1日 @ 23:28

  6. そもそも、講和条約(平和条約)締結後に戦争中のことについて外交問題にするのは、
    国際的慣習からは非礼であり、国際秩序を乱す危険な行為だと思います。

    そして、経済的利益から国際秩序を軽視する中国に譲歩すべきという論理は理解
    できません。経済的利益は国際秩序の上でこそ正しく見積もれるものだと思います。
    国際秩序より経済的利益を重視して東アジアに新秩序を作ろうとし、全てを失った
    のが、戦前の日本の失敗だと思いますが、その愚を繰り返すのでしょうか。

    また、日米関係が重要なのは、それが国際秩序を維持する上で最重要なファクターの
    一つであるからであり、東アジア共同体のようなものをアメリカが不安視するのは、
    それが現在の国際秩序と conflict するかもしれないからではないのでしょうか。
    今は、中国が国際秩序を積極的に維持する真の大国になるか、国際秩序を破壊して
    新秩序を作ろうとするかの分れ道だと思います。
    もし100年の大計を考えるなら、世界のためにも中国のためにもここで譲歩すべき
    ではありません。

    コメント by motton — 2005年6月2日 @ 13:22

  7. いつも、見させて頂いています。今回のエントリは、反日運動に感情的に対抗する、過去の歴史認識を忘れた偏狭なナショナリズムの不毛な争いの中で、冷静な視点で日本側の行動や問題点を突いておられるなと思います。靖国問題については先生の仰られる通り、サンフランシスコ条約で日本側が過去の侵略行為を認めたということは、いくら国内で不満や不平があろうとも、その侵略行為を裁いた東京裁判も受け入れるという事であり、日韓条約でも、日中国交正常化でも過去の侵略行為を認めた(その根底にサンフランシスコ条約の精神がある筈)のであれば、そのA級戦犯を祭る靖国神社参拝は、それらの国際的取り決めに反する事ではないでしょうか。だから、中、韓には靖国参拝について意見を言う権利はあると思います。当方は、中国人と話したりした事もありますが、彼等は、別に過去の戦争での戦死者を慰霊するのは問題はないが、A級戦犯が祭られている神社に首相が参拝するのはやはりおかしい。と言います。過去の不幸な歴史は事実であり、日本側にその原因があるのだから、靖国参拝や閣僚の問題発言などは日本側がまずそれを正すべきではないでしょうか。それから、中、韓のナショナリズムや過剰な反日教育についてキチンと日本側が訂正を求めれば良いし、中国の問題について堂々と言えばいいと思います。 

    コメント by japan-china — 2005年6月2日 @ 15:27

  8. 靖国神社は宗教というよりも、戦場で亡くなった兵士達の家族の怒りや悲しみを和らげ、英霊として崇めることで、その犠牲を名誉ある戦死と変え、遺族達に幸福感すらもたらす、極めて政治的な装置だと『靖国問題』の高橋哲哉氏は書いています。私が以前、靖国神社の遊就館を見学した時、戦争賛美にもとれる激しいその国家主義に、怒りで涙が出てきたことがありました。これじゃ、純粋に国の為に死んでいった人達に逆に失礼じゃないかと。口を閉ざした彼らの勝手な死の意味付けを国家が好きなように利用して、それも当然なことと思っている。あそこまで死んだ本人達も崇められ、神と祀られることをよしとしないんじゃないかと思うわけです。沈黙の死者にたいするその死の勝手な意味づけは、時として死者に対する激しい冒涜にもなるのではないか・・以前職場で、特攻機桜花をつんだ一式陸攻のパイロットだったという年輩の方に聞いたことがあります。「それで、洋上の最後の出撃の時、飛行機の中では特攻員達とどういう会話をするのですか?水杯で君が代を歌うのですか?」「なーに、ヒロポンだよ、ヒロポン!馬鹿言っちゃいけないよ、薬でへろへろになっているんだよ 歌うのは赤とんぼだよ、赤とんぼ!」「・・・・」実戦を知らない者ほど、国家崇拝を声高に讃え、軍国主義を安易に鼓舞して荒ぶれるのだろうと思うのです。なによりも、なぜ国家が個人よりも重きをなすのか、納得した説明を聞いたことがありません。個人の幸福がなぜ国家よりも下に置かれるのか?どなたか御教えください

    コメント by ane — 2005年6月2日 @ 17:02

  9. ところで現実問題として、そんな危険なナショナリズムが今この国にどれほど存在しているのでしょうか?
    戦争賛美の国家主義者が果たしてどのくらいいるのでしょうか?

    むしろ正反対ではないでしょうか?

    昨今の拉致問題の発覚で、政府や政治家つまり国家が国民の生命と財産を守ろうとしなかったことを国民は知ってしまったのではないでしょうか?
    そして安全保障に必要な種々の法制度すらまともに整備されていなかったこの国の現実に愕然としているのでないでしょうか?

    コメント by pin — 2005年6月2日 @ 20:19

  10. 私は現在46歳の男性ですが、日常生活のうえで私が男であることを認識することはほとんどありません。(でもオカマではありませんよ)しかし、女友達と話をしていて、いやがうえにも重要だと感じることは、彼女達がこの日本で生活する時、いつも女性というジェンダーを意識せざるおえないということなのです。なぜなら、彼女達が言うには、この日本の社会は男性社会だからと。そして、いたる所で男社会という構造の中で差別を受けているという。差別を受ける側は被害者のことが多いから、突きつけられた問題に意識的で鋭敏です。我々男性は加害者として同じ問題に鈍感で無意識的です。(男社会と意識することさえあまりないのです)つまり差別や人権侵害は加害者の被害者に対するその感受性のなさが原因でもあり、定義でもあると思うのです。PINさんのコメントを拝見して、私が感じる印象はまさにこれと同質なものです。危険なナショナリズムが今この国にどれほど存在するのかとおっしゃる。私にはびっくりするほどの鈍感さに見えます。たしかに戦争賛美の極端な軍国主義者はまだ現れていないかもしれません。(個人的には東京都知事や自民党の一部議員に近いものを見ますが)しかし、首相靖国参拝などのそうした拡大する危険の臭いが隣国には許容範囲を超えたものとしてあるからこそ、隣国のあちこちで猛烈な反日運動が起こるのです。中国は今のところ、靖国神社自体やそこにA級戦犯が合祀されていることには批判していない。首相が参拝する政治的行為に限定して批判している。この戦後問題をそこに限定して解決しようとの意図を見抜かなければならないと思うのです。経済的にはお互い最重要のパートナーになったわけですから。また、憲法すらまともに守れない政府が安全保障の法整備などできるわけがないじゃないですか。先日、竹島問題で韓国では政府から民間まで反日が荒れ狂っている時、日本のおばちゃん達がヨンさまツアーで3千人近く、その嵐の中へバスツァーをして当地の人間やマスコミを唖然とさせたそうです。この記事を読んで私は将来の希望に見えるのです。相手国の感情を無視するいつもの日本人ではなく、国や国境を越えた新しい関係づくりとして。大量の資金が国境を越えて瞬時に移動します。人間だけが国や国境にしがみついているのです。閉じて鬱屈し、攻撃的なナショナリズムは百害あって一利なし。ただ、外交的孤立を深めつつある日本が、隣国からは仁徳のない国と言われ、ぼろ糞に攻撃されるその情けなさをなんとかしたいのです。
    そして、残念なことに多くの責任は我々日本にあるということが、私の消したくとも消えない内なる声なのです。

    コメント by ane — 2005年6月2日 @ 22:55

  11.  日本人は靖国問題を論じるときに、この問題で譲歩することは、中国や韓国が主張するでたらめな反日教育の中身までを肯定したと、国際社会からは受け止められかねないと言う点を念頭に置き、対処すべきではないでしょうか?
     現在の日中間のやり取りを見ている限り、中国の主張は、東京裁判で認知された中国側の被害からかけ離れているように思われます。たとえば、100万人~200万人と言われた日中戦争の中国側の被害者数は、現在、3500万人と誇張され(これは大躍進運動等での何千万人という被害者を小さく見せるために設定された何の根拠もない数字です)、当時、東京裁判時にはなかった南京大虐殺というフィクションまで、あたかも事実であるがのごとく宣伝されています。
     日本では、サンフランシスコ平和条約で認めたのだから、東京裁判およびA級戦犯という定義は受け入れるべきだという主張がよく聞かれますが、実は、東京裁判や日中平和条約の内容を最も軽んじ、無視し、都合の良いところだけを強調しているのは、ほかならぬ中国だということはあまり認識されていないようです。
     そういったことを考えますと、われわれは、単なるお人よしな日本人でありつづけるべきではなく、「靖国の問題について異議を唱える前に、まず、反日デモによる大使館への被害について謝罪し、賠償しなさい。」と毅然とした態度を取るべきでしょう。中国や韓国が自らの嘘の捏造や約束の反故を謝罪し、日本に対する名誉毀損を賠償してはじめて、靖国の問題を論じるべきではないでしょうか?
     いみじくも昨日、香港では天安門事件、6周年の追悼集会が開かれました。そこで、中国の民主化活動家の代表は「日本に歴史の認識を問う前に、中国政府は自らの歴史の再考を行うべきだ」とはっきりと述べています。あれだけ弾圧を受けるなかで、この毅然とした態度はどうでしょうか?日本人も少しは見習うべきではないかと思います。

    コメント by 公共の利益に反しない限り — 2005年6月5日 @ 10:56

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