中岡望の目からウロコのアメリカ

2005/8/1 月曜日

我が友、永岡洋治君への鎮魂

Filed under: - nakaoka @ 23:10

今日、思わぬ訃報に接した。衆議院議員の永岡洋治君が自殺した。午前中、原稿を執筆中、テレビの速報で彼の自殺を知った。最初の反応は、「なぜ」というものであった。彼とは1981年にボストンで知り合った。彼はハーバード大学ケネディ政治大学院の学生であった。私もフルブライト奨学金を得て、ビジティング・フェローとしてケネデフィ政治大学院に所属していた。20年以上も前のことである。皆、夢に燃えていた。当時の仲間に、学生では後に衆議院議員になった塩崎泰久君と茂木敏光君がいた。私と同じフェローとして大蔵省から来ていた山本幸三氏も後に衆議院議員になっている。他にも素晴らしい仲間がいた。現在、東工大教授の下田隆二君、東京ガスに務めながら東京女学館教授の西山昭彦君などもいた。皆、30代になったばかりの頃である。希望に燃えていた時代であった。丸紅を辞めて留学してきていた茂木君が、絶対に政治家になると熱く語っていた。また、日銀から留学してきていた塩崎君は、後に父親が経済企画庁長官に就任したのを機会に父親の秘書になり、政治家の道を歩むことになる。同時期にUSジャパン・プログラムで留学してきていた倉成君も外務大臣の父親を継いで政治家になり、開銀から来ていた竹中平蔵君も大学教授から政治家になっています。1980年代の初め、ハーバード大学には素晴らしい人が集まっていたといえます。以下、永岡君に対する思いを書くことにする。

留学から帰ってきてしばらくして、永岡君から「会いたい」という電話があった。山の上ホテルのロビーであった。ボストンにいる頃は、あまり突っ込んだ話をするチャンスはなかった。帰国後、彼らの同窓会に何度か呼ばれ、親しく会話を交わすようになった。ハーバード大学で一緒にクラスを取ったロバート・ライシュが来日するたびに、私や永岡君、塩崎君などが集まって会食などをする機会もあった。ロバート・ライシュはクリントン政権の時の労働長官である。帰国後、ライシュのクラスで使った本「Minding America’s Business」を永岡君と塩崎君、そして私の3人で翻訳し、1984年に東洋経済から「アメリカの挑戦」というタイトルで出版した。その本は、通産省次官だった天谷直弘氏に監修をしてもらった。お互いに初めての翻訳で、苦労したのを覚えている。

正確な日にちは覚えていないが、彼から「会いたい」という電話がかかってきたとき、正直、何の話かと訝った。一緒にいろいろしたが、それまで決して個人的な付き合いをしていたわけではなかった。山の上ホテルのロビーで待ち合わせ、おそらくバーでお酒を飲みながら話をしたと思う。そのあたりの記憶は曖昧だが、彼が話したことは鮮明に覚えている。彼は「政治に出ようと思っている」と切り出した。当時のケネディ政治大学院の仲間たちからすれば、そうした話が出てきても不思議ではなかった。その時、彼は農水省の課長か課長補佐だったと思う。何を議論したのかはっきり覚えていない。覚えているのは、彼の決意表明であり、私が答えた短い言葉だ。おそらく日本の政治を何とかしなければという思いが、彼に政治を志させたのであろう。私は政治の世界については無知であったが、「じゃあ、どんなことがあっても付いてくる同志を3人確保すべきだ」と生意気に答えたことを覚えている。彼が苦労して議員になったとき、私がその話をすると、彼は「そんなこともあったかな」と、あっけらかんとしていた。

しかし、彼が実際に政治の世界に入るまでには時間がかかった。途中、鹿児島県の農政部長として、地方勤務も経験している。しかし、政治に対する志は変わることはなかった。塩崎君のように父親の地盤を引き継いだわけでもなく、茂木君のように20代から政治家を目指して準備をしてきたわけでもない。地盤も何もないところからの政治の世界への転進だった。彼が最初の選挙に出たのは、小沢一郎の誘いに乗って新進党から立候補したときだ。小沢は若手官僚に軒並み声をかけ、新進党から立候補させていた。政治に対する志を持つ永岡君は、おそらくなんら躊躇することなく、その誘いに乗ったのだろう。しかし、志はすぐに実現するものではない。茨城3区から立候補し、選挙結果は5万9000票を取って次点に終った。地縁も何もない選挙区からの立候補であった。このときから、彼の政治家への道が始まった。

浪人中に彼は、私に勉強会をしたいから手伝ってくれと言って来た。官僚から立候補して、落選した仲間たちを集めて勉強会を作り、お互いを励まし合ったり、政策の勉強をしたいというのである。正確な人数は忘れたが、メンバーになったのは10名くらいだと思うが「21世紀フォーラム」という組織を立ち上げた。当時の仲間の大半は後に選挙に当選し、国会議員になった。その中で一番政治家になるのが遅れたのが永岡君ではなかったかと思う。その会には現衆議院議員の増原義剛氏や後藤茂之氏などもいた。小冊子を作り、毎回、選挙活動や政策の主張を記載して発行した。4~5冊出版したのではないかと思う。私が、皆の原稿を集め、編集した。全員で温泉地に行って、政策議論を展開したこともあった。

また、浪人中、「フォーラム21」という集まりを作り、本を出版した。西山君の手配で、ごま書房から「異議あり! 日本」というタイトルで出版された。各人が寄稿し、それを私が総編集することで見栄えのいい本になった。執筆者は当時、日本長期信用銀行調査部長の上田信行君(彼は長銀が国有化されたときに退職し、大学の教授となったが、ガンで亡くなった)、関西大学鵜飼康東教授、西山昭彦君、ジャーナリストの平野陽子さん、国士舘大学の桝井一仁教授、コンサルタント会社のモニター・カンパニー社長の村沢義久君(彼は、この9月から東大教授に就任する)と、そうそうたる人物であった。それは、皆が政治家を志す永岡君にエールを送る本であった。

永岡君は選挙で2度落選している。その間、上に書いたように実によく勉強をしていた。会っても、暗いところや、深刻なところはほとんどなかった。政治について熱く語っていた。純粋に政治を志していたことは間違いない。農林水産省で仕事をしながら、官僚の世界に限界を感じていたのだろう。それが、彼を政治へと向かわせたのであろう。気配りの人であった。政治家のように図太さは感じなかった。おそらく表面には出さなかったのだろうが、シャイな心を持っていたのであろう。

私が東洋経済を辞めて、セントルイスのワシントン大学に行くことが決まったとき、歓送会を開いてくれた。出席してくれたのは、永岡君、塩崎君、西山君、下田君だったと記憶する。永岡君は、私がセントルイスにいるときに選挙で初当選を果たした。最初に立候補した年は覚えていないが、役所を辞め、長い浪人生活に耐えて当選したものである。やっと自分の夢に向かって歩み始めた。何度か、私は彼の選挙区で講演を頼まれて出向いたことがある。浪人中も、当選してからも講演を依頼された。一番最近では昨年のアメリカ大統領選挙前で、大統領選挙の見通しについて話をした。

勉強会をしようという話もした。それが、この春から実現した。少子化問題を取り上げ、何か具体的に政策提言を行いたいというのが彼の希望であった。西山君が幹事的な役割を引き受け、月に1回のペースで自民党本部の会議室に集まり、関係省庁の担当者に説明を求めたり、議論をしたりしてきた。最後の会は、6月だった。その会が終ったとき、彼は「あと数回やってから文章にまとめたいね」と語っていた。また、今年の春だったと思うが、恵比寿のレストランで飲み会を開いた。永岡君や塩崎君、西山君などが出席し、「こうした集まりを定期的に開こう」などと話をしたのを覚えている。

彼は、少なくとも私が知る限り、岡の上ホテルで私に語った政治に対する熱い思いをずっと持ち続けていた。政治家になった後も、決して志を曲げなかった。ハーバード大学当時と同じように青年であった。

突然の訃報に接し、それが自殺であることを知ったとき、当惑した。「なぜ死ななければならないのか」と、心の中で大きな声で問いただしたかった。一見剛毅に見えるが、心に弱さがあったのであろうか。この20年、心地良い距離感を持って彼と接してきた。その意味では、彼の心の中に入ることはなかったのかもしれない。しかし、政治のあり方については随分議論をしてきた気がする。その少年のような心は、政治という過酷な現実の中で無残に打ち砕かれたしまったのだろうか。マスコミは様々な憶測記事を書いているが、私にはそうした説明では彼の心は説明できないという思いが強い。

長年持ち続けた夢をやっと実現し、これから活躍の場が与えられるというときに、なぜ自らの人生にピリオドを打たなければならなかったのか。「君は素敵な人だった」と彼に向かって言いたい。しかし、どんなに言葉を掛けても、返事はもう返ってこない。

マスコミは、あることないこと無責任に書きたてるかもしれない。しかし、ここに書いた君の姿が、僕が知る本当の君の姿である。そのことを友人として確実に書き留めておく。

4件のコメント

  1. 中岡先生、紙パルプ会館田中です。私も昨日の永岡議員の自殺を見て驚きました。先生からご紹介頂いて、永岡議員と携帯でご挨拶がてら銀座食学塾の講師にお招きしたいとご相談させて頂いたら、気さくに「日時が決まったら秘書に連絡して頂戴」とお返事頂きました。メディアが色々書き立てて真意の程は私には分かりませんが、残念な事ですし、突然の事に、ただご家族の方にお悔やみを申し上げるだけです。

    コメント by 田中淳夫 — 2005年8月2日 @ 13:14

  2. 永岡洋治
    永岡洋治 † 8/1永岡洋治現職議員、首を括った遺体として自宅で発見される。警察&マスコミはこれを自殺と断定する。 遺体発見初日でまだ何の捜査も行っていないにもかかわらず、しかも遺書も見つからなかったのだが警察が自殺と断定。しかも検視も行わないと発表…

    トラックバック by PukiWiki/TrackBack 0.2 — 2005年8月3日 @ 03:38

  3. 永岡洋治
    永岡洋治 † 永岡洋治/自殺事件へ統合 8/1永岡洋治現職議員、首を括った遺体として自宅で発見される。警察&マスコミはこれを自殺と断定する。 遺体発見初日で捜査も進展しておらず、挙句に遺書も見つからなかったのだがなぜか警察が自殺と断定。しかも検視も行…

    トラックバック by PukiWiki/TrackBack 0.2 — 2005年8月5日 @ 00:47

  4. 日常生活において、政治家の方にお会いすることは身近ではない私のような存在にとってはとても大切な記事でした。永岡議員のように情熱と信念をもって政治の道に進まれる方こそ、政治の世界で頑張って頂きたかった。やはり信念だけでは難しい権力闘争の場なんだな、思うと同時にもっと市民と政治家の間が身近になるにはどうしたらいいのか、深く考えさせられました。

    コメント by 緒方 真奈美 — 2005年8月10日 @ 11:43

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