中岡望の目からウロコのアメリカ

2005/9/22 木曜日

ダイエー創業者中内さんへの思い:彼の訃報に接して

Filed under: - nakaoka @ 12:15

前回の「進化論論争」の続きですが、その前に書いておきたいことがあります。それはダイエーの創業者中内さんのことです(彼の名前は「いさお」ですが、その字は「功」ではありません。「力」の字の上の部分がない字ですが、PCのソフトにその字はありません)。中内さんは9月19日亡くなりました。83歳でした。彼は、日本に流通革命をもたらした人物です。日本最大のスーパーを自分ひとりで作り上げた人物です。だが、バブルに翻弄され、結局は全てを失い、失意のうちに表舞台から退場した人物です。少しですが、中内さんについてぜひ書いておきたいことがあります。

15年以上前のことになると思います。あるグループの勉強会がありました。食事をしながらおおいに議論をするという特に縛りのない気楽な勉強会でした。その勉強会に中内さんが何度も顔を出していました。というよりは、中内さんの肝いりでできた勉強会でした。忙しい合間を縫って会場に顔を出した彼は、必ず隅っこに座っていました。メンバーが勝って気ままに議論するのを黙ってメモを取っていました。会が終わり、司会者が「中内さん、何か一言」というと、彼はメモを見ながら、コメントをしました。そのコメントが実に的を射た内容で、正直、関心しました。多忙な経済人は、自分で勉強するのは大変です。ですから、“耳学問”が重要になってきます。人の話に耳を傾け、その要点をとっさに把握する能力が必要なのでしょう。まとまりのない議論が、彼の言葉で議論の問題点が鮮明になったことがあるのを記憶しています。既に名をなし、私たちのような若造でなくても、もっと著名な学者なり関係者を呼んで話を聞くことができたのでしょうが、40前後の私たちの集まりでの議論に謙虚に耳を傾け、常にオープンな姿勢に、正直、感動に近いものを覚えました。

創業者社長は自分の会社をまるで自分の子供のように思うもののようです。ですから、どうしても人に任すことはできないのでしょう。それは自分しかできないという自信かもしれませんし、自分しか信用できないという思いからかもしれません。当時、彼のスタッフから聞いた話では、すべての書類を自分で目を通さなければ気がすまない人だったそうです。自宅に大量の書類を持ち帰り、深夜まで目を通し、決済していたそうです。そうしたワンマン振り、あるいはスタッフに任せられない気質のために、優れたスタッフを育てることができなかったのでしょう。

確か、彼は南カリフォルニア大学の名誉博士号をもらっていると思います。あるとき、アメリカの大学でスピーチをしなければならないので、相談に乗って欲しいと呼ばれたことがあります。知人たち数人(その中に私の記憶が間違っていなければ竹中平蔵君もいたと思います)と浜松町にあるダイエーの本社の社長室に行ったことがあります。もう誰も思い出さないかもしれませんが、ダイエーの入社式では中内さんが英語でスピーチをしたものです。当時は奇異な感じがしましたが、今、振り返れば、日本社会よりも数歩前を歩きながら、国際化を展望していたのでしょう。

彼の喋り方には特徴がありました。早口で、決して発音明瞭ではありませんでした。会社ではワンマンで、誰も直接話しかけられない雰囲気があったようですが、とても人懐こい好人物だったと思います。彼の訃報に接して、メディアがいろいろな人物のコメントを掲載していました。その中で記憶に残っているのは「彼は反逆の人だった」という言葉がありました。小さな主婦向けの小売店から事業を始め、消費者の立場に立つという基本的な理想を実現した人物です。複雑な流通業界の中で様々な抵抗を受けながら、“安売り”という戦略を通して流通業界の革命を成し遂げたのです。

しかし、ワンマン経営には常にリスクが伴うものです。経営の要諦は、スタッフに権限を委譲することです。しかし、それが難しい。回りにイエスマンが集まり、嫌な話を聞かせないのです。私の兄がかつてダイエー関連の会社に勤めていました。また、もう一人の兄はユニーに勤めていました。あるとき、二人が話していた言葉を思い出します。「中内さんが店の視察に来ると決まると、まるで店の雰囲気が変わってしまう。ちょうど天皇の行幸を迎えるかのような雰囲気になり、陳列棚を変えたり、店を飾ったりと大変だ。しかし、それが終るとまた元通りになる」。彼は知らないうちに”裸の王様”にされていたのでしょう。そんな状況に置かれた彼には、決して店頭の詳細かつ正確な情報は入ってこなかったのかもしれません。しかし、彼ほどダイエーを愛した人物はいなかったことは事実です。

確かに拡大路線は間違えたのかもしれません。長い間、日本は「土地本位制」の国でした。土地さえ持っていれば、銀行は無条件で融資をしてくれたのです。地価はかならず上昇するものだったのです。ですから、土地を持っていれば、担保価値は確実に上昇したのです。銀行は、事業の収益性や将来性を考えず、ただただ土地を担保に融資を続けたのです。それが、資本のない企業にとって成長の原動力となりました。土地を買い、それを担保に融資を受け、店舗を拡大し、さらに収益を土地購入に当て、融資を受け、また店舗を拡大するというのが当時の経営戦略でした。それはダイエーだけでなく、多くの日本企業に共通した経営手法でした。それが日本の銀行を駄目にしたのです。銀行の融資担当者は、事業評価の能力を磨くことなく、ただただ土地を担保に取ればよかったのです。融資を増やすときも、土地の評価を引上げれば、簡単に融資を増やすことができたのです。それが、バブルを生み、日本の経済のみならず、社会そのもの基盤までも空洞化してしまったのです。

中内さんは、悔しい思いをしたと思います。何も知らない人物が大きな顔をして、ダイエーを再建すると声高に語っている姿をどのような思いで見ていたのでしょうか。敗軍の将は去るのみで、何も語りません。あるとき、中内さんに近い人物に、中内さんに「失敗の理由」を書いてもらったらいいと話したことがあります。しかし、それは実現しませんでした。敗軍の将は、本当に何も語らずに去っていきました。その一方で、勝ち誇ったように構造改革を唱え、ダイエーを潰したことは改革の大勝利だと祝杯を挙げている人々がいます。

もう日本には中内さんのような人は出てこないかもしれません。人生に様々な思いを抱きながら自分の仕事に取り組むことがなくなってきたのかもしれません。彼は戦争という経験を通し、権力に対して懐疑心を抱いていたのでしょう。以前、もう故人になられた著名な経済学者と話をしたことがあります。当時、ケインズ経済学が影響力を失いつつあり、市場至上主義の経済学が力をつけつつあった時期です。その中で彼は「自分はケインズ主義者だ」と言って憚らない学者でした。その理由を聞いたら、「自分の経済学は戦後の荒廃した社会で飢えた経験から出発しているからだ」と答えたのを覚えています。中内さんも、同じ思いで事業を展開したのでしょう。「お金儲けこそが正義」と考える今の経営者には、彼らの思いは決して届かないのではないかと思います。

1件のコメント

  1. 中内さんを誉める人はいないのか
    ダイエーの創業者、中内功氏が9月19日、脳梗塞により死去された。が、どうも世の扱いは冷たいようだ。あれほどの業績を残した経営者にしてはバカにどの論評も冷静過ぎるような気…

    トラックバック by 非国際人養成講座 — 2005年9月24日 @ 05:41

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