中岡望の目からウロコのアメリカ

2006/8/29 火曜日

岐路に立つアメリカ経済:頭をもたげるスタグフレーション

Filed under: - nakaoka @ 9:11

現在、「Introduction to American Politics」という英語の本を執筆中です。締め切りは今月末です。アメリカの政治の仕組みを説明している本ですが、いろいろ基本的なことを整理でき、執筆を楽しんでいます。ただブログはなかなか書く時間がなく、今月、アップした本数はわずかに留まりそうです。今回は、アメリカ経済の見通しです。経済の言葉に「スタグフレーション(stagflation)」というのがあります。景気低迷の「stagnation」と物価上昇の「inflation」を合わせて作られた言葉です。高成長を続けてアメリカ経済がスタグフレーションに陥るのではないかと懸念されています。すなわち、景気が後退するなかで、インフレが高まる状況です。世界経済は低インフレ、低金利の時代から大きく変わりつつあります。その中でアメリカ経済も大きな転機に差し掛かっていることは間違いないようです。アメリカ景気を支えてきた住宅市場が急速に冷え込みつつあり、8月の消費者コンィデンスも急落しています。アメリカ経済の変調の兆しは明らかです。

高まるスタグフレーションのリスク

最近思うことは「経済学は科学なのだろうか」ということである。7月28日から8月10日にかけてアメリカのエコノミスト69名を対象にした景気予測調査が行われた。フェデラル・ファンド金利の目標値がどうなるかという問いに対して、35名が年末まで5・25%の現在の水準が続くと予想し、27名が年内にもう一度引き上げられて5.5%になると回答している。そして6名が年末までに引き下げが行われると予測している。要するに誰にも確かなことは分からないということである。これではエコノミストは一般の人と何ら変わらない。直感的な裏づけしかない景気予想を背景に、市場関係者や投資家が目先の経済指標の動向に右往左往する状況が常態化している。

本稿もその域を出ないかもしれないが、重要なのは経済予測が当たるかどうかよりも、どんな景気シナリオを描くかどうかにある。筆者が尊敬してやまないモルガンスタンレー証券の主席エコノミストのスチーブン・ローチ氏はいつも見事に予想を外すが、それでも市場の信頼を得ているのは、彼の類稀なシナリオの構想力が魅力的だからであろう。

今、アメリカ経済が直面している問題は、FRBが想定するような成長鈍化とインフレ抑制という軟着陸が実現するのか、あるいは深刻なリセッションに陥るのか、さらにはリセッションとインフレが同時に進むスタグフレーションに直面するのかである。成長鈍化は、既に明らかになっている。実質成長率は第1四半期の5・6%から第2四半期には2・5%まで急落している。上半期は4・1%の高成長を達成したが、下半期は2・8%にまで減速すると予想されている(前述のエコノミスト調査の結果)。そして、少数派であるが、07年初にリセッションに陥るとの予想も聞かれる。その予想の根拠は、04年から始まった17回に及ぶ利上げの累積効果の発現、エネルギー価格の上昇、景気の原動力になっていた住宅ブームの終焉である。

それ以上にアメリカ経済にとって深刻な事態は、エネルギー価格上昇と単位労働コストの上昇を吸収してきた生産性向上が鈍化し始めていることだ。さらに好況が続いてきたことで労働市場の逼迫化と労働賃金・報酬が上昇し始めている。となると、エネルギー価格と労働コスト上昇による“コストプッシュ・インフレ”という最悪の事態も起こりかねない事態になっている。

バーナンキFRB(連邦準備制度理事会)議長は、難しい課題に直面している。中央銀行の最大の使命は通貨価値の安定、すなわちインフレ抑制である。同議長は2月に就任して以来、まだFRB議長として市場の信任を得るに至っていない。しかし、景気減速が明確になる中でインフレ・タカ派の姿勢を貫くのは容易ではない。特に同議長の場合、雇用重視の姿勢も窺われるだけにリセッションのリスクを犯してまで利上げを継続するのは難しいかもしれない。景気の軟着陸を実現するには、極めて狭く、危険な道を進まなければならない。

8月8日に開催されたFOMCは18度目の利上げを見送ったが、同時に発表された声明で「経済成長は住宅市場の緩やかな冷却化と金利とエネルギー価格の上昇によって年初の力強いペースから穏やかなペースになった」と指摘しつつ、「コアインフレはこの数ヶ月で上昇し、稼働率の上昇とエネルギーなどの一次産品価格の上昇でインフレ圧力が高まる可能性がある」とインフレに対する警戒感を示している。その一方で「長期的にはインフレ圧力はインフレ期待の沈静と金融政策の累積効果など総需要を抑制する要因を受けて軽減すると思われる」と楽観的な見通しを述べている。さらに「同委員会はインフレ・リスクが依然として存在していると判断している。今後の追加的な引き締めのタイミングと程度はインフレと成長の両方の展開を見ながら決定する」と、今後の利上げに含みを持たせた表現をしている。しかし、インフレに対する曖昧な表現の中にFOMCの迷いが見て取れる。

しかし、経済指標は矛盾した状況を示している。エネルギー価格上昇で第2四半期に可処分所得が650億ドル減少したという試算がある。また、個人消費を支えてきた住宅市場の冷却化も顕著で賃金の上昇率も鈍化しており、総合的に判断すれば個人消費の落ち込みは避けられない状況である。

事実、住宅市場では8月初の30年固定住宅ローン金利は6・7%と、住宅バブルが始まった04年末のローン金利は5・8%と比べると1ポイント近く上昇している。住宅ローン金利上昇を受けて住宅ローン申し込み件数も減少し始めており、7月の申請件数は前年同月比で20%も落ち込んでいる。住宅市場指数も91年以来最低の水準を記録している。中古住宅の中位価格の上昇率も4%強と、前年同月の12%強から大幅に落ち込んでいる。全米不動産協会は、今年の中古住宅の販売戸数は6%以上落ち込むと予想している。住宅バブルは破裂しないまでも、確実に終焉を迎えつつあることは間違いない。住宅投資の経済成長に対する寄与度は、昨年の第4四半期から既にマイナスになっている。こうした動向は個人消費にマイナスの影響を与えると予想される。

しかし、まだ顕著な影響は出てきていない。7月の小売販売は前月比1・4%(前年同月比4・8%)と、この半年間で最高の伸びを示している。5~7月の3ヶ月間でみると前年同期の伸び率は5・9%と大きく伸びている。これを見る限り、個人消費が急激に冷え込む状況にはなっていない。ただ、8月のミシガン大学の消費者センチメント指数は低下すると予想されており、7月の小売販売のペースは続かないと見られ、秋口以降の成長鈍化は避けられないだろう。金融政策は効果を発揮するのに時間がかかるといわれる。04年6月から始まった引き締めの累積効果が出てくるのは、これからであろう。今年の春までの利上げは超緩和政策を中立に戻す狙いがあったが、5月以降の利上げは景気を睨んだものに変わった。8月のFOMCが利上げに慎重であったのも、今までの利上げの累積効果を確認したいという気持ちがあったからであろう。

では、インフレ動向はどう見ればいいのだろうか。FOMCの生命で指摘されているように、コアインフレは上昇基調にあり、直近のコアインフレは年率2・9%で上昇している。この水準は、FRBが“快適なゾーン”と考える1~2%を上回っている。予想される成長鈍化がコアインフレの上昇を抑制する効果を発揮するなら、景気の軟着陸が期待できる。しかし、状況はそう楽観的ではない。

経済学の理論を使えば、成長率(あるいは失業率)とインフレの間にはトレードオフの関係が存在する(これをフィリップス曲線という)。ノースウエスタン大学のロバート・ゴードン教授の研究では、インフレ率を1ポイント引き下げるには失業率を2ポイント引き上げなければならない。したがって、コアインフレを快適なゾーンの上限の2%まで引き下げるには失業者を300万人増えるまで金利を引き締め、経済成長を抑制なければならない計算になる。それは、現在の4・8%の失業率が5・5%まで上昇することを意味する。それは間違いなく深刻なリセッションを意味する。

問題は、バーナンキ議長がそこまで成長と雇用を犠牲にしてインフレ抑制を図る覚悟があるかどうかである。もし同議長にそれだけの覚悟がなければ、アメリカ経済は、「FRBは古典的なスタグフレーションに直面する」(ゴードン教授)事態に陥るだろう。それは同時にバーナンキ議長が市場の信頼を失うことを意味している。9月20日に開催されるFOMCでバーナンキ議長の真価が問われることになりそうである。

1件のコメント

  1. おもしろい記事、ありがとうございました。
    今、弱気派と強気派に二分されているように思います。
    これで、わたしも弱気に傾きました。
    もう一度よく考えてみます。
    ありがとうございました。

    コメント by 萩原一宏 — 2006年9月5日 @ 00:39

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