中岡望の目からウロコのアメリカ

2006/11/18 土曜日

ミルトン・フリードマンの思い出:私にとって忘れられない言葉

Filed under: - nakaoka @ 13:43

ミルトン・フリードマンが11月16日午前3時にサンフランシスコで亡くなりました。享年94歳です。両親は東欧から移民してきたユダヤ人で、彼は1912年7月31日にニュヨーク市で生まれました。実は、私はフリードマンとは二度、東京でインタビューしたことがあります。また拙著『アメリカ保守革命』で、彼が果たしたアメリカ保守主義運動での役割について詳細に記述しています。彼の訃報を受け、様々なメディアが追悼文や彼の業績について解説記事を掲載しています。でも、どの説明もいまひとつ不十分で、フリードマンの本当の姿を紹介していないという印象を受けました。私は彼の一言に導かれたアメリカの思想の研究を始めた気がします。それは、インタビューの時の「アメリカの思想の振り子は40~50年の周期で右から左、左から右に動いている」という彼の言葉でした。1980年代初の頃だったと思います。以下、追悼の念を込めて、私のフリードマン諭を書いて見たいと思います。

まず個人的な印象から述べます。正確の時間も場所も忘れましたが、上に書いたように東京で2度、一対一でインタビューをしました。『週刊東洋経済』のバックナンバーを探せば、どこかにインタビューが掲載されていると思いますが、インタビューの内容はもう記憶にありません。もともとフリードマンは一流の経済学者でしたが、80年代に彼が書いた本『選択の自由』がベストセラーになり、PBSがその本に基づいてテレビ番組を作成しました。それは日本でも放映されたはずで、日本でも経済学に関係ない人たちも名前が知られるようになりました。彼の学問的な業績は後で触れることにします。インタビューの時の印象を言えば、小柄な人物で、穏やかな口調だったことを思い出します。気難しい学者というイメージはまったくありません。彼は1976年にノーベル経済学賞を受賞しています。しかし、インタビューの時、まったく偉ぶったところがなく、楽しいインタビューだった印象があります。

そのときに上に書いた言葉(「アメリカの思想の振り子は何十年という長い周期で右から左、左から右に動いている」)を聞きました。ちょっと追加的な説明をしますと、1930年代にアメリカはルーズベルト大統領の指揮のもとに「ニューディール政策」に取り組み始めます。これは、ある意味では、伝統的なアメリカの“リベラル思想”とは異なるものでした。大恐慌を脱するためにルーズベルト大統領は政府が積極的に市場に介入し、公共事業などを通して雇用を創出しようとしました。政権発足後の最初100日に相次いで新政策を発表します。労働組合の団体交渉権を認めたり、失業保険制度を創設したり、テネシー川のダム開発などの大プロジェクトを実施したりしました。その後のアメリカは「ニューディール連合」と言われる政治的なグループが主導権を握り、新しいアメリカのイメージを作り上げてきたのです。“ニューディールのリベラリズム”は伝統的なリベラリズムとは違っていましたが、いつのまにか“ニューデフィールのリベラリズム”がアメリカの主流のリベラリズムを意味するようになっていきます。

要するに、“ニューディール・リベラリズム”という思想の振り子はアメリカ社会を左のほうに引っ張り、その動きは何十年も続くことになるのです。戦後、大きな“ニューディール・リベラリズム”の思想の波がアメリカ社会を飲み込んでいきます。その振り子は、60年代半ばのジョンソン大統領の「偉大な社会プログラム」で左のピークに達します。戦後、こうした“ニューディール・リベラリズム”は国家の経済や社会に対する過剰な介入を招くと批判する勢力が現れます。その一人が、ミルトン・フリードマンです。彼は回顧録『Two Lucky People』の中で「当時、保守主義という言葉を口にするだけでパラノイアと見られた」と述懐しています。特にケインズ経済が圧倒的な影響力を持っていた学界で、古典的な経済学を主張することは無謀でした。実は、フリードマンは経済学者であると同時に優れた思想家であり、また社会批評家でした。彼は、アメリカの保守主義を代表する論者なのです。フリードマンは妻のローズといつも一緒に行動していました。『選択の自由』も、彼女との共著だったと記憶しています。二人の共著はたくさんあります。おそらくとても愛妻家だったのでしょう。『Two Lucky People』の表紙も、フリードマンが笑顔でローザの肩に手を置いた写真が使われています。本のタイトルと同様、二人は「幸せなカップル」だったと思います。“Lucky”というよりは“Happy”な二人だったのではないでしょうか。

アメリカの保守主義の詳細は拙著『アメリカ保守主義革命』の中に書きましたが、キリスト教的な価値観を主張する伝統主義者と古典経済学を主張するリバタリアン(自由主義者)、さらに反共主義者で構成されていました。フリードマンは、リバタリアンを代表する論者でした。彼は市場主義や規制緩和を要求し、政府の経済への介入を批判していますが、それは彼の経済思想から出てきたものです。また、彼はケインズ経済学の有力な批判者でした。今、安倍政権で取り上げている学校教育の“バルチャー制度”の導入は、フリードマンが以前から主張していたことです(ただ、安倍政権の議論はあまりにも幼稚ですが)。

フリードマンが経済学者としての地位を確立したのは、『A Monetary History of the United States』(1963年刊)です。これはAnn Schwartzとの共同研究で、膨大な統計データを使って通貨と経済の関係を統計的に分析し、通貨供給量とインフレの間に密接な関係があることを証明したのです。フリードマンはコロンビア大学で博士号を取得し、教鞭を取っていました。実はシカゴ大学は独特な知的伝統を持ち、そこで活躍する一群の学者は「シカゴ学派」と呼ばれています。それは経済学に限らず法学の学者も、同じような社会理解、歴史理解を共有し、「シカゴ学派」と呼ばれています。通貨とインフレの関係に関しては、アービング・フィッシャー(1867~1947)が「フィッシャーの交換方程式」を使って通貨供給量がインフレと密接な関係があることを主張していました。フリードマンは、膨大な歴史的データを使って通貨とインフレの間にある関係を証明したのです。彼が「マネタリスト」と呼ばれる経済学者の代表的学者と見なされているのも、こうした研究があったからです。

通貨とインフレの関係とは、通貨供給量を増やしても一次的に経済活動が活発になって成長率が高まっても、最終的にはインフレ率を高めるだけだということを証明したのです。それと同時に彼の主張で注目されるのは、大恐慌の原因です。大恐慌の原因に関しては今でも学者の議論が続いています。余談ですが、バーナンキFRB(連邦準備制度理事会)議長は、大恐慌の研究家で知られています。フリードマンの主張は、大恐慌はRRBの政策の失敗によって引き起こされたものであるということです。こうした考え方は、ケインズ経済学の裁量的な政策に対する彼の批判的な立場につながっていきます。そして最終的に金融政策は一定の割合(X%)で機械的に通貨を供給すべきであるという「X%ルール」へと発展していくのです。裁量的な政策には様々な問題が含まれています(問題の認知ラグ、政策立案ラグ、政策効果ラグ)。そのため裁量的な政策は市場を混乱させるだけであり、金融政策は明確なルールに基づいて行なうことで、市場の予想形成を妨げるべきではないという主張につながります。それは後の「合理的期待の論理」に引き継がれていきます。フリードマンは、最近では「インフレ・ターゲット論」を支持していたと言われます。それも、彼の「裁量的政策よりもルール」という考え方に一致するのでしょう。

これは個人的な話で恐縮ですが、ロバート・ルーカスとトーマス・サージェントという学者が、合理的期待理論の代表的な学者ですが、私がフルブライト奨学金に応募するとき、サージェントは私に推薦状を書いてくれました。当時、彼はミネソタ大学の教授でしたが、私がハーバード大学にいた年にリーブで同大学に来て、教鞭を取っていました。そのクラスは経済学のクラスというよりは数学のクラスで、とても付いていけませんでした。現在、ルーカスはシカゴ大学教授、サージェントはプリンストン大学教授になっています。私が合理的期待理論に接したのは、東洋経済の季刊誌『近代経済学シリーズ』の編集部に所属し、ルーカスとサージェントが書いた論文「ケインズ経済学を超えて(Beyond Keynesian Economics)」という論文を訳したときです。

いずれにせよ、フリードマンは政府の市場介入、経済介入に対して批判的で、その思想はイギリスのサッチャー首相に影響を与え、さらにレーガン大統領にも大きな影響を与えます。二人が掲げた規制緩和、民営化、小さな政府などは、すべてフリードマンの思想から出てきたものです。もし、フリードマンが存在しなかったら、サッチャー首相やレーガン大統領は保守的な政治理念を実現するための経済政策を持つことができず、保守主義の流れも大きく変わったかもしれません。それほど理論的にも、また人間的にも、フリードマンの与えた影響は大きいのです。サッチャーはフリードマンを「an intellectual freedom fighter(知的な自由の戦士)」と呼んでいます。バーナンキFRB議長は、2003年に行なった演説の中で「フリードマンの思想は現代マクロ経済学の中では常識となっており、そのため彼の思想の持つ独創性と革命性を見落としてしまうほどである」と語っています。

多くの評論は主に経済学者フリードマンに言及していますが、彼の社会思想も極めて大きな影響を与えているのです。思想家としてのフリードマンは、先に触れた『選択の自由』もありますが、『資本主義と自由』(1980年)も特筆に値するものです。これはハイエクの『隷属への道』に匹敵する名著です。アメリカの徴兵制度を廃止させたのは、フリードマンでした。郵便事業などの民営化も早い時期から主張していました。ドラッグや売春を犯罪として処罰すべきではないという主張もしています。こうした発想は、リバタリアンに共通した社会思想です。「市場の選択」に任せるべきという考えなのでしょう。また、「マイナスの所得税」というアイデアも提案し、これを福祉制度に置き換えるべきだと主張しています。累進課税制度を廃止し、「均一税制(フラット・タックス制)」も提案しています。先に書いたように、学校の「バウチャー制度」を主張していますが、その基本的なアイデアは、公立学校の“教育独占”を打破し、私立学校と競争させることを狙ったものです。彼の力点は、安倍内閣の主張とは異なるのです。最近では、シュワルツネッガー・カリフォルニア州知事の顧問を務めています。

言うまでもなく経済学者として超一流でした。彼の『価格理論』は優れたミクロ経済学の教科書です。彼の消費理論である「恒常所得仮説」も経済学への大きな貢献です。この消費理論に従えば、減税は効果がないことになります。人は、恒常的な所得をベースに消費を決定するのであって、一回限りの減税は恒常的な所得とは考えられないので、諸費者は消費を増やさないというのが政策的なインプリケーションになります。

また70年代末から80年代のアメリカの金融政策に大きな影響を与えました。70年代にアメリカはインフレに悩んでいました。その解決の切り札として採用されたのが、マネーサプライのコントロールでした。カーター政権の時にFRB議長に任命されたボルカー議長は、金融政策を金利ではなく、マネーサプライの増加率をコントロールする方式に変更しました。すなわち、FRBは金利ではなく、マネーサプライの増加目標を設定し、目標内に増加率を抑える政策を取ったのです。その結果、高金利が出現し、アメリカ経済は不況に陥りました。当時、アメリカの金融政策は毎週末に発表されるマネーサプライ統計で市場が大きく動いたものです。その政策で、インフレは抑制されたものの、高失業率など、大きな犠牲を払うことになりました。ただ、最近ではマネーサプライはいろいろな指標の1つにすぎず、以前ほど注目されなくなっています。

彼の社会思想に関しては様々な議論があると思います。また、マネタリストの金融政策が必ずしも成功したとは言えません。しかし、フリードマンが世界に与えた影響は、私たちの想像をはるかに超えているのではないでしょうか。ジャーナリストとして、フリードマンに直接インタビューをする機会を得たのは幸いでした。そして最初に触れた「思想の振り子」の話は、私が彼から得た最大の贈り物でした。

先のアメリカの中間選挙で、民主党が共和党を破って両院の過半数を占めました。フリードマンは、その結果を見て、世を去ったわけですが、これはアメリカの新しい振り子が左に振り戻し始めた兆候なのか、それとも60年代に始まった保守主義運動の振り子はまだ右に触れつつあり、今回の選挙の結果は単なる長い振り子の振れの1つのエピソードにすぎないのか聞いてみたいところです。

なおアメリカ保守主義運動のなかでフリードマンが果たした役割については、拙著『アメリカ保守革命』をぜひご一読ください。

5件のコメント »

  1. 私は現在52歳の会社員です。学生時代に「資本主義と自由」を読んで感動し、その後フリードマンを心の師としていました。大著「Monetary History of the United States 1867-1960」を辞書を引き引き読破したのも懐かしい思い出です。思えば私が学生だった70年代は経済学界もフリードマン、サミュエルソン、ガルブレイス、スティグラー、ヒックス、トービン、レオンチェフ、マスグレイブ等々華々しく刺激的な時代であったと思います。80年だったと思いますが一度だけ応募した葉書が当たって日経ホールで来日したフリードマンの講演会を聞くという幸運にも恵まれました。若い日に受けた刺激と感動は今も私の財産であり、思想の基本です。冥福を祈ります。(フリードマンが博士号を取得したのはシカゴ大学ではなく1946年コロンビア大学からだったと思います。当時は確か博士号は出身大学 (学部) とは異なる大学(大学院) で取得する制度ではなかったでしょうか)

    コメント by 南澤良夫 — 2006年11月25日 @ 17:50

  2. ご指摘の通りです。1946年にコロンビア大学から博士号を取得しています。訂正しました=中岡

    コメント by nakaoka — 2006年11月25日 @ 20:39

  3. 太田龍の時事寸評

    人類に対する犯罪者、ミルトン・フリードマンを支持し、ほめたたえたすべての日本人を同じく人類に対する犯罪者として、告発すべきこと。

    更新 平成20年01月15日23時58分

    平成二十年(二〇〇八年)一月十五日(火)
    (第二千三百回)

    ○ミルトン・フリードマンを持ち上げ、ほめたたえ、崇拝し、現代世界の
     すばらしい偉大な学者、思想家、……として公然、高く評価した、

    ○すべての日本の学者、ジャーナリスト、評論家……
     それらの人々の名前を歴史に記録し、記憶しなければならない。

    ○二〇〇五年秋、
     あの有名な、ニューオリンズを襲ったハリケーン、カトリーナ。

    ○この大ハリケーンに対するブッシュ政権の対応が遅い!!
     と、米国内外の世論は批判した。

    ○しかし、ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」は、要約、
     次のように述べて居る。

     (1)二〇〇五年秋、ハリケーン、カトリーナによってニューオリンズ市
        は壊滅した。

     (2)そのとき、ミルトン・フリードマンは九十三才、健康を害して居り、
        実際、次の年の二〇〇六年には死んでいる。

     (3)このミルトン・フリードマンは、すぐに、ウォール・ストリート・
        ジャーナルに論説を書いた。

     (4)フリードマン曰く。
        これは絶好の機会である。

     (5)この機会をとらえて、ニューオリンズ市の教育システムを根本的に
        変革すべし。

     (6)従来の伝統的公共学校教育を廃絶すべし。

     (7)かくしてブッシュ政権は、フリードマンの提言を、ただちに実行に
        移した。

     (8)ハリケーン・カトリーナ以前に、ニューオリンズ市の教育委員会は、
        百三十三校の公共学校を運営していた。
        そして今、公共学校は、四校しかない。

     (9)カトリーナ以前、チャータースクールは七校のみ。
        しかし、今、三十一校のチャーター・スクール。

     (10)カトリーナ以前、ニューオリンズの教育組合は強力であった。
        今や、四千七百人のもとの教員はクビにされた。残ったのはごく僅か。
        教員組合は粉砕された。……

        (『ショック・ドクトリン』、四~六頁)

    ○ナオミ・クラインは、
     ミルトン・フリードマンとその一味が、一九七三年のチリ、ピノチェット軍
     クーデター政権を皮切りに、全世界で展開した、そして今も展開しつつある
     国民国家破壊のための戦争を詳細に記述している。

    ○ミルトン・フリードマンが人類に敵対する犯罪者である。

    ○と言う、ナオミ・クラインのテーゼは、空言ではない。

    ○これまでの三十年間、

    ○日本で、ミルトン・フリードマンとその一味のネオリベラリストを公然ほめたたえ、
     支持したすべての人間のリスト。

    ○このリストを作成して、広く、全日本人に知らせる必要がある。

    ○これらの日本人学者、ジャーナリスト、評論家、インテリ、マスコミ人、官僚、
     政治界……

    ○これらもまた、
     フリードマンと共に、人類に対する犯罪者として、特筆大書さるべきであろう。

    コメント by ミルトン・フリードマンの犯罪 — 2008年1月16日 @ 09:14

  4. ニューオーリンズの教育は自由化されたのですね。
    すばらしい!

    日本でも早くやってほしいです。
    今こそ選択の自由を!

    コメント by よっしー — 2008年7月6日 @ 11:40

  5. フリードマンの理論を背景にした政策がとうとう世界恐慌に発展した。フリードマン批判の急先鋒であるクルーグマンのノーベル賞受賞は、今日の住みにくい、地獄のような世界を形成したフリードマン派のヘゲモニーの失墜を象徴するものに違いない。人類は中世の混沌に戻るべきではない。

    コメント by coa — 2008年10月15日 @ 12:43

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