中岡望の目からウロコのアメリカ

2008/3/7 金曜日

人間としてのヒラリー・クリントン:彼女の「魅力」と「限界」

Filed under: - nakaoka @ 3:02

3月4日、オハイオ州、テキサス州、バーモント州、ロードアイランドで民主党の予備選挙が行なわれました。オバマ上院議員が優勢で、場合によってはクリントン候補が“敗北宣言”をするのではないかという予想もありました。しかしオハイオ州で大勝し、テキサス州では僅差ですがクリントン議員が勝利しました。開票結果が明らかになった6日の夜10時、日本テレビの記者から電話取材を受けました。1時間ほど選挙分析を説明しました。そして最後に「最終的にはどちらが勝つと予想されますか」と質問されました。様々な不確定要素があり、簡単に予測するのは無理ですが、「票読みではオバマ議員が優勢だがクリントン陣営に勢いがでてきている。もし8月の全国大会までクリントン議員が持ちこたえれば、まだ彼女に勝機はある」というのが、私の答えでした。その予想は8日の日テレの朝の番組で紹介されました。今回の記事は『週刊東洋経済』(2月9日号)に掲載された「ヒラリー・クリントンの意味」の元原稿です。クリントン議員が大統領になるかどうかは別にして、女性として、また人間として魅力的な存在であることは間違いありません。選挙結果とは別にヒラリー論として読んでください。

2009年1月20日、深夜から振り続けていた雪は明け方にはやんでいた。ワシントン市内はうっすらと積もった雪に覆われていた。昼が近づくにつれて、それまで肌を刺すように冷たかった空気にも温かみが感じられるようになっていた。ヒラリー・ロドハム・クリントン次期大統領は市内にあるメソディスト教会で早朝の礼拝を終え、夫婦そろって議会に向かった。20日は米国憲法で定められた大統領就任式が行なわれる日である。ブッシュ大統領の任期は20日の正午に終わる。それまでに新大統領の宣誓式を行なわなければならない。

クリントン夫妻が議会に着いたとき、宣誓式が行なわれる議会のウエスト・フロントの前の広場は、既に多くの人で埋め尽くされていた。米国の最初の大統領の誕生を見ようと全米から集まってきた人々である。

副大統領の宣誓式に続いて大統領の宣誓式が行なわれた。ジョン・ロバーツ最高裁長官の立会いの元で宣誓は行なわれた。ロバーツ長官がクリントン次期大統領に右手を上げるように指示し、憲法で定められた「宣誓」を読み上げた。クリントン次期大統領はロバーツ長官の読み上げる宣誓を一句、一句復唱した。「私ヒラリー・ロドハム・クリントンは合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持し、保護し、擁護することを厳粛に誓います」。

宣誓が終わると同時に海兵隊の音楽隊が奏でる澄んだ音楽が青い空に吸い込まれるように流れた。ヒラリー・ロドハム・クリントン第44代米国大統領が誕生したのである、

もちろん、これは1年後に行なわれる大統領就任式の様子を想像したものである。今回の選挙は民主党が共和党から大統領を奪回できるのかという関心と同時に、米国史上最初の女性大統領が誕生するかというのも大きな焦点となっている。

クリントン上院議員は08年1月13日のNBCテレビの報道番組「ミート・ザ・プレス」に出演し、ジャーナリストのティム・ラサートの質問に「私の人生すべてで経験してきたことはオバール・オフィス(大統領執務室)に行くための準備である」と自信に満ちた言葉で答えている。また、雑誌『ザ・ニューヨーカー』(08年1月28日)はクリントン議員に関する記事「ザ・チョイス」の中で「クリントンにとって大統領になることは社会を変えるというよりも(自分の)目標を達成することである」と、彼女の野心を表現している。

だが、米国は女性大統領を受け入れる準備はまだできていないかもしれない。『ニューヨーク・タイムズ』紙(08年1月8日)は「女性は決してフロント・ランナーになれない」と題する記事を掲載している。その中でグロリア・スタイメン記者は「ジェンダー(性)は米国社会で最も制約的な力である」、「米国は女性の政界への進出度では先進国の中で下位にランクされている」と書いている。

米国では政治家としての能力が問われるだけでなく、女性であることも議論の的になる。民主党のライバルであるオバマ・バラク上院議員やジョン・エドワーズ元上院議員でさえ、女性が大統領になることに暗に批判的なコメントを繰り返している。ましてや保守的な人々のクリントン攻撃は、留まるところを知らぬほど熾烈なものである。攻撃の理由はきわめて簡単である。彼女が女性だからである。

クリントン議員にとってホワイトハウスへの道は、決して容易なものではない。予備選挙が始まった07年春以来、世論調査で同議員は圧倒的な支持を得ていた。公開討論会でも対立候補を圧倒してきた。彼女が民主党の大統領候補に選ばれることはほぼ確実とさえ思われた。しかし10月30日にフィラデルフィアで行なわれた民主党の公開討論会で“女性としての弱さ”を見せたとして支持率は急激に低下し始める。

最初の予備選挙である08年1月3日に開かれたアイオワ州の党員集会で得票率はオバマ議員、エドワーズ元議員に次いで3位という手痛い敗北を喫した。この1年間の勢いは完全に失われ、三人の候補者が横一線で競い合う状況となった。1月8日に行なわれるニューハンプシャー州の予備選挙で再びオバマ議員の後塵を拝することになれば、クリントン議員の勢いは完全に失速すると見られていた。

政治にとって“女性であること”がハンディキャップであるなら、ニューハンプシャー州の予備選挙ではクリントン議員は“女性であること”で救われたといえる。政治家にとって涙はタブーである。それは指導者にとって弱さを露呈することだからだ。米国を率いる指導者は常に強くなければならないというのが、米国の政治の常識である。落涙で野望を打ち砕かれた政治家は多く存在するが、クリントン議員は涙で救われたともいえる。

ニューハンプシャー州の世論調査は、圧倒的にオバマ議員の優勢を伝えていた。「変化」を訴えるオバマ議員に対して、ファースト・レディーの8年間、上院議員の6年間の経験を訴え続けた。ただ彼女の演説は決して人々を鼓舞するものではなかった。夫のビル・クリントンの持つような能弁さは彼女にはなかった。また男性に伍して戦えるという“強さ”を示す姿勢は、多くの人々に冷たい印象を与える結果となっていた。

投票日の朝、クリントン議員は喫茶店に支持者を集めていつもと変らぬ雰囲気で質問に答えていた。しかし、一人の支持者の質問に答えているとき彼女は絶句した。その瞬間、かすかに目に涙が浮かんだように見えた。「私は米国から多くの機会を得てきた。しかし、その国が大きく後退するのを見たくない。これは個人的な事柄です」と、それまでの強い口調から訴えるような口調で支持者に訴えかけた。その姿は多くの女性の心に響いた。

それまで彼女に冷淡だった女性たちが、「彼女がそこまで国の将来を憂えていることに打たれた」「このまま予備選挙を終わらせるわけにはいかない」と応じた。女性解放運動を経験してきた女性の高齢者が彼女の支持にまわった。同じ日、二人の男性が「俺のシャツにアイロンをかけろ」と書いたプラカードを持ってクリントン議員の選挙本部の前を歩き回ったことが女性差別だとして多くの女性が反発氏、クリントン議員に票を投じた。アイオワ州では多くの女性がオバマ議員に投票したが、ニューハンプシャー州では女性はクリントン支持に回ったのである。

“強い”クリントン議員が見せた涙は、彼女の“女性らしさ”を出したものと好意的に受け止められたのである。彼女は勝利演説のなかで「私は皆さんの声に耳を傾けた。そして自分自身の声を見つけた」と語った。多くの人々は、この発言をそれまでひたすら男性に負けない“強さ”を証明しようとしてきたクリントン議員の姿勢の変化だと受け取った。イギリスの新聞『ガーディアン』は「このとき革命が始まった」と、そのときの様子を書いている。

ニューハンプシャー州の勝利で息を吹き返したクリントン議員は、続いてミシガン州、ネバダ州で勝利を収めた。1月26日に行なわれたサウス・カロライナ州の予備選挙ではオバマ議員が勝利し、最新時点ではクリントンは3州で勝利し、オバマ2州で勝利するなど、拮抗した戦いを展開している。党の大統領候補になるには2025票が必要である。現時点ではクリントン議員が230票、オバマ議員が152票を獲得している。2月5日に22州で同時に予備選挙が行なわれる“スーパー・チューズデー”の結果で体勢が決まるだろう。

かりに予備選挙で勝利して党の大統領候補になっても、11月4日に投票が行なわれる本選挙で共和党大統領候補に勝たなければならない。クリントン大統領が誕生するまえには、まだ長い道のりが残っている。

クリントン議員の政治家としての成長は、多くの女性が抱える同じ問題を克服する過程でもあった。米国では社会的な成功を目指す女性にとって“ガラスの天井”という目に見えない差別が存在していた。長い間、ビジネス社会だけでなく政治の世界でも女性は決して男性と同等に扱われなかった。クリントン議員は、そうした壁をひとつずつ破ってきた。それは“戦い”の過程でもあった。

先の「ミート・ザ・プレス」の中で、彼女は「私は娘であり、母であり、妻であり、姉妹である女性の経験をホワイトハウスに持ち込む。そうした経験は、また私の経験の一部でもある」と語っている。彼女がいかに優れた政治家であっても、女性という存在を常に引きずっているのである。

クリントン議員は1947年にシカゴ市内で生まれた。ベビーブーマー世代の一人である。父は能弁なメソディスト派の敬虔なキリスト教徒であった。母は寡黙でリベラルな人物であった。家庭の雰囲気は宗教的で、保守的であった。クリントン議員は少女時代の自分を「用心深く順応的であった」と語っている。近所の少女の“イジメ”にも合っていた。

社会問題に対しては比較的早い段階から興味を抱いていた。最初の“政治的な挫折”は、高校のときに生徒会会長に立候補して落選したことだ。そのとき対立候補の男生徒から「女が会長に選ばれると考えるのは愚かなことだ」といわれ、その言葉がいつまでも棘のように彼女の心に残った。

9年生の時、保守的な小学校の歴史の教師の影響を受ける。その教師からバーリー・ゴールドウォーター(当時上院議員)の著作『保守主義者の良心』を読むように勧められる。同議員は日本では極右の政治家と見られているが、米国では保守主義を代表する人物として保守系の人々から尊敬されている。同著は当時ベストセラーになった本でもある。彼女は保守主義の思想に魅了され、クラスの課題作文で保守主義運動について書いている。さらに17歳のときゴールドウォーター議員の選挙運動にボランティアで参加している。後年の96年に彼女はフェニックスに住むゴールドウォーターを訪問し、1時間に渡って談笑している。リベラルなイメージの強い彼女の意外な一面である。

少女時代に、もうひとつの重要な出会いがあった。それは教会の牧師ドナルド・ジョーンズとの出会いである。彼は彼女をマーチン・ルーサー・キング牧師の説教に連れて行き、リベラルな観点から社会問題を考える契機を与えた。ジョーンズ牧師は、彼女の生涯の精神的な支えとなる。夫のクリントン大統領のモニカ・ルインスキーのスキャンダルのとき精神的に落ち込んだ彼女に救いの手を差し伸べたのはジョーンズ牧師であった。10代の彼女に大きな影響を与えたのは保守主義とリベラリズムの両方であった。彼女の心理理構造は「意識は保守的だが、心はリベラル」という状況であった。

ヒラリーが共和党と決別するのはウエルズリー大学に入学してからである。1年生の時、保守派の組織「ヤング・リパブリカン」に所属し、会長まで務めていた。しかし、キング牧師の暗殺を契機に保守派に懐疑を抱き始める。68年の大統領選挙の共和党予備選挙でネルソン・ロックフェラーを破ってリチャード・ニクソンが勝利したため、彼女は共和党と決別する決意をする。そして選挙で民主党の反戦派のユージン・マッカーシーを支持するようになる。

大学の卒業式の日に決定的なことが起こり、それがその後の彼女の人生を決定したと言っても過言ではないだろう。65年5月、ウエルズリー大学の卒業式で総代として演説を行なった。来賓としてきていた初の黒人上院議員エドワード・ブルーク議員が演説の中で社会的な抗議活動を控えるように訴え一方、キング牧師の暗殺にも、公民権運動についても言及しないことに怒りを感じたヒラリーは、スピーチの中でブルーク議員を名指しで批判し、「すべての抗議、異議申し立ては、この時代ではアイデンティティを作り上げる試みである」と異例な演説を行なったのである。演説が終わると学生たちのスタンディング・オベーションが7分間続いた。その演説は全国的に報道され、彼女は時の人になる。

卒業式が終わった日の午後、キャンパスにある美しい湖でヒラリーは一人泳ぐ。5月の水はまだ冷たい。湖の真ん中まで泳いできて周りを見回すと、近視の彼女の目には湖の周りの風景は印象派の絵のように映ったという。一人の少女の社会への旅立ちの日の出来事である。

ハーバード大学とイエール大学の法律大学院への入学が決まった。彼女はどちらを選ぶか迷っていた。ハーバード大学のカクテル・パーティに招待されたとき知人が高名な教授に彼女が進路に迷っていると伝えると、同教授は「ハーバード大学は女性の学生はいらない」と答える。それの言葉に反発して、彼女はイエール大学法律大学院に進学することを決める。まだ大学院で学ぶ女性が少ない69年のことである。入学生は235名で、女性は27名であった。

イエール大学で彼女はビル・クリントンに図書館で出会い、71年春ころからデートするようになる。73年に法律博士号を取得、最初に書いた学術論文は「法の下における子供たち」と題するものであった。在学中から子供の教育や医療に関する活動に関わってきた。それは彼女にとって生涯のテーマになる。ファースト・レディーだった96年にベストセラーとなった本『It Takes a Village』を出版しているが、その副題は「子供たちが私たちに教えてくれる教訓」である。これも、彼女が大学院生の頃の問題意識が続いていることを示している。

大学院卒業後、ニクソン大統領の弾劾を審議する下院司法委員会の調査スタッフとして働く。その仕事が終わったとき、キャリアを目指す女性が共通に持つ問題に直面する。恋人のビルはアーカンソー州の司法試験に合格し、既にワシントンを後にしている。ビルから何度かプロポーズさているが、まだ決断が付かないでいた。このままワシントンに残り弁護士としてのキャリアを積むべきか、それともビルの元に行くべきか。彼女は、最終的にビルの元に行くことを選ぶ。74年8月のことである。自伝『リビング・ヒストリー』の中で彼女は「私の心は私が正しい方向に向かって進んでいると語りかけていた」と書いている。キャリアより結婚を優先したのである。

そのとき、ビル・クリントンは、連邦議会下院議員に立候補していた。同州フェイットビルに着いたとき彼女は「熱い夏の夕方、選挙演説をしているビルの姿」を見つける。下院選挙で落選したビルは、その後州司法長官に選ばれ、さらに知事に当選する。ビルが知事に当選したため、ヒラリーは大学の教師の仕事を辞して州都のリトルロックに移る。そこで知事夫人の役割を果たしながら、知人のビンス・フォスターの紹介で有力なローズ法律事務所に弁護士として職を得る。2年後に同事務所の最初の女性パートナー(共同経営者)に昇進し、88年と91年に「ナショナル・ロー・ジャーナル」誌に最も影響力のある弁護士100名に選ばれるなど、弁護士としての実績を積み上げていく。80年に娘チェルシーが誕生、ヒラリーの人生は誰もが羨む満ちたりたものだった。

92年にビルは大統領に就任する。ヒラリーが44歳のときである。ビルが知事時代も、大統領になってもヒラリーはひたすらビルに尽くした。ファースト・レディーになった92年にニューヨーク・タイムズの記者の質問に答えて「私は妻であり、母であり、活動家である」と答えている。当時、ファースト・レディーは“主婦のロール・モデル”であることを期待されていた。ファースト・レディーが政治に口を出すことは嫌われ、“内助の功”を果たすことを期待された。しかし、ヒラリーはそうした枠組みに納まらず、政策に関与するのではないかと常に批判に晒されたてきた。

彼女にとってファースト・レディー時代は”中年の危機“の時代であったかもしれない。クリントン政権発足後、最初に取り組んだ医療保険制度改革は共和党のみならず民主党からの反対にもあり、無残な失敗に終わった。その後、彼女が表立って政策に関わることはなくなった。また彼女をローズ法律事務所に誘ってくれ、クリントン政権で大統領次席法律顧問の職にあったフォスターの自殺に直面する。さらに97年にクリントン大統領と研修生モニカ・ルインスキーのスキャンダルが明らかになる。夫婦関係の危機である。彼女は既に50歳になっていた。彼女は真剣に離婚を考えたという。しかし彼女は夫婦の危機を乗り切ったと当時に、00年の上院議員選挙に立候補することを決意する。危機をばねに、新しい人生を切り開こうとしたのである。

06年に上院議員の再選を果たすと、翌年2月に大統領選挙出馬を明らかにする。唯一の女性候補者として厳しい選挙運動を強いられている。まだ最初の女性大統領に就任できるかどうか、まだ予断を許さない。しかし、どんな逆境のなかでも、おそらく彼女は生き抜いてくるだろう。

ジョーンズ牧師は、ヒラリーのアイデンティティの中心にはキリスト教があると指摘する。彼女は人間の限界性と同時に人間性の可能性も理解しているともいう。10代のとき極右と極左が同時に存在するように、彼女の心には常に二面性がある。それは優れた先駆者としての顔であり、冷酷な印象を与える人柄と計算しつくされた野望の持ち主でもある。ヒラリーは選挙運動の中で「私が最初の女性大統領になることは米国が変ることである」と語っている。米国社会は彼女を受け入れる準備はできているのだろうか。

2件のコメント »

  1. こんにちわ、

    ヒラリーさんは、女性の大物である下院議長のナンシー・ペロシさんや国務長官のライスさんもいるので、ずっと民主党のフロントランナーであったこともあって息切れ状態かもしれませんね。

    オバマ氏は、インドネシアでも生活していたことのある多民族国家アメリカの大統領になるためには、強力なアドバンテージとカリスマ性を秘めていますね。

    最近、オバマ氏の身辺調査をさかんにマスコミがおこなっていることからオバマ氏が大統領になる可能性は高いのではないでしょうか?

    クリントンさんは、確かに魅力がありますが、演説や身辺問題の対応が優等生すぎてしまうところが限界なのではないでしょうか?

    コメント by 田中 — 2008年3月19日 @ 18:34

  2. クリントンさんは完璧なイメージがあったのにここにきてイメージが崩れてきてます。

    コメント by ali@住み込みバイト — 2008年7月9日 @ 19:03

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