中岡望の目からウロコのアメリカ

2008/7/8 火曜日

ウィリアム・バックリーと保守主義運動:なぜアメリカの保守主義は蹉跌したのか

Filed under: - nakaoka @ 2:05

アメリカの保守主義は大きな転換点にあります。1950年代に始まった保守主義運動は1981年のレーガン政権の誕生で大きな成功を収めました。以降、アメリカは急速に保守主義路線を走ってきました。保守主義の思想を支えてきたのは、ラッセル・カークなどのアメリカの思想家とヨーロッパから亡命してきたハイエクやみーゼス、さらに自由主義者でマネタリストのフリードマンなど錚々とした経済学者などです。保守主義運動については拙著の『アメリカ保守主義革命』を参照してください。そして保守主義思想と政治と結びつける役割を果たしたのがウィリアム・F・バックリーJrでした。しかし、現在のアメリカの保守主義は理念を失い、迷走しているように見えます。2008年2月にバックリーは逝去しました。晩年の彼はブッシュ政権などの保守主義に批判的な立場を取っていました。彼の死は、アメリカの保守主義の蹉跌を意味するものかもしれません。大統領選挙の最中、改めてアメリカの保守主義を考えてみました。今回アップした原稿は『諸君』6月号に寄稿したものです。

大統領予備選挙で激戦が展開されている最中、ひとつの訃報が報じられた。ウィリアム・F・バックリー・ジュニアが2月27日、急逝したというニュースが全米で報道された。享年82であった。その日の早朝、書斎で机に向かったまま息絶えているところを発見された。小説家で息子のクリストファーは友人たちに「今朝、スタムフォードの自宅の書斎の机の前で」とだけ書かれた簡単な電子メールを送って父の死を知らせた。彼は新聞記者に「おそらく父はコラムを書いていたのだろう」と語っている。バックリーは、死の瞬間まで仕事に没頭していたのだろう。

バックリーの評伝『チェアマン・ビル』を書いたデビッド・ミラーは、バックリーを「凡庸の時代のルネサンスマン」と呼んでいるように、彼の活動は極めて広範囲にわたった。アメリカ保守主義を政治の傍流的な存在から本流に育てあげる役割を果たした「ナショナル・リビュー」誌の創刊者兼編集者であり、“オン・ザ・ライト”と題する隔週のコラムは全米の320以上のメディアが掲載する著名なシンジケート・コラムニストであり、一人の人物が最も長くホストを務めたテレビのトークショー番組“ファイヤリング・ライン”のホストであり、スパイ小説を含め50冊以上の本を書いた小説家でもあり、年間数百回の公演をこなす人気講演者であり、さらにバッハを愛し、週末はヨットでクルーズを楽しみ、グルメでもあるルネッサンスマン的な生き方を貫いてきた人物である。そしてなによりも、アメリカの保守主義運動を作り上げてきた人物であった。

彼の死に対して各メディアは最高の弔辞を掲載した。保守派の週刊誌ウィークリー・スタンダード誌は、同誌の編集者であり、代表的なネオコン論者として知られるウィリアム・クリストルが「真摯な歴史学者ならビル・バックリーについて議論することなく20世紀のアメリカの歴史を書くことはできないだろう」と書いている。ニューヨーク・タイムズ紙は「バックリーの最大の功績は保守主義をひとつの思想体系にまとめ上げたことである」と高い評価を与えている。またロサンジェルス・タイムズ紙では「バックリーは現代の保守主義の父であり、ブッシュ政権の最も苛烈な批判者の一人として生涯を閉じた」と書いている。

同種の賛辞を探すのは簡単である。しかし、ウォール・ストリート・ジャーナル紙の「バックリーの死は若い世代の保守主義者と創始者の世代の間に残っていた最後のつながりを断ち切るものであった」というコメントは極めて示唆に富んだものであった。また、ロサンジェルス・タイムズ紙の「バックリーの死はアメリカの知的指導者の一人を失っただけでなく、数十年続いてきた保守主義運動の崩壊を示すものである」というコメントは、ウォール・ストリート・ジャーナル紙のコメントと“共鳴”し合うものがある。それは古い世代の保守主義者と新しい時代の保守主義者の間にある一種の世代の断絶を意味するのかもしれない。あるいは晩年のバックリーが置かれた保守主義運動の中での立場かもしれない。

アメリカ保守主義は戦後のささやかな思想潮流として始まった。ミルトン・フリードマンは自伝の中で「当時のアメリカ社会は大学もメディアでもリベラル派が圧倒的に支配する社会で、保守主義という言葉を発するだけでパラノイアと見られた」と書いているように、保守主義はまさにアメリカの政治思想の限界的な存在でしかなかった。しかし、その保守主義が現在ではリベラルを圧倒し、アメリカの政治のみならず社会全体に深く浸透し、大きな影響力を及ぼすまでになっている。

一人の人物の死を大きな時代の変化と重ね合わせるのはやや非科学的だが、後年、歴史家が過去を振り返ったとき、バックリーの死はアメリカ保守主義の大きな転換点を象徴する出来事であったと書き記すかもしれない。アーサー・シュレジンジャー・ジュニアは『アメリカの歴史のサイクル』の中で、アメリカの経済的、政治的なコンセンサスはリベラリズムと保守主義の間を20年から35年のサイクルで変動すると書いている。

アメリカの現代保守主義の思想的な歩みは、リチャード・ウィーバーの保守主義の記念碑的な著作『アイデア・ハブ・コンスクエンシーズ(思想は結果をもたらす)』が出版された1948年から始まったと考えられる。また保守主義の政治運動が始まったのは「ナショナル・ジャーナル」誌が創刊された1955年、あるいは保守主義者のバーリー・ゴールドウォーター上院議員が共和党の予備選挙でネルソン・ロックフェラー議員を負かして共和党の大統領候補になった年を出発点と考えることもできる。そして1981年のレーガン政権の成立で、アメリカの“保守革命”は成就したといわれている。その後、アメリカでは保守主義がリベラリズムを圧倒し、共和党支配の時代が実現する。

シュレジンジャーの仮説が正しいとすれば、“保守革命”が成就して約30年経った現在、大きな思想の振り子が右から左に揺り戻す時期に来ているのかもしれない。バックリーの死について書かれたウォール・ストリート・ジャーナル紙やロサンジェルス・タイムズ紙の記事は、そうした時代の変化を予兆しているのかもしれない。

特に大統領選挙での共和党の混乱ぶりをみると、新しい政治状況が生まれつつあると考えるのも決して誇張ではないように思える。レーガン政権を誕生させた保守連合の分裂と空洞化が間違いなく始まっているからだ。

そうしたアメリカの政治思想と政治情勢の変化を理解するには、クリストルが指摘するように保守主義運動でバックリーが果たした役割を検討し、それが現在の保守主義陣営の思想状況とどうかかわっているか検討してみる必要がある。

「ナショナル・リビュー」創刊まで

バックリーが保守主義者を代表する論者の一人として認められたのは、1951年に『イエール大学における神と人間』を題する本を出版したときからである。ラッセル・カークが、イギリスの思想家で近代保守主義の父と呼ばれるエドモンド・バークの理論をもとにウィーバーの理論を発展させ、保守主義者のバイブル的な本『保守主義の心』を出版したのが1953年であるから、バックリーの本の出版はそれよりも早かった。その時、バックリーは25歳であった。初刷りは5000部だったが、発売後数日で増刷が行われているほど大きな反響を呼んだ。

石油で財をなした裕福な家庭に生まれ、カトリック教徒の厳格な躾を受け、人はいつか神に召され、天国では自分は神の左に座ると信じていたバックリーにとって、イエール大学の状況は我慢ならないものだった。バックリーには、当時のイエール大学ではプロテスタントの世俗化が進み、政治的にリベラルで、無神論と反資本主義に偏り、創立の理念から逸脱しているように見えた。同書の副題「学問の自由の迷信」は、彼の思いを端的に表現したものであった。彼は同書の中で「私はキリスト教と無神論の間の闘争が世界で最も重要なことだと信じている。また別のレベルで行われている個人主義と集団主義の争いも同様に重要だと信じている」と書いている。同書は、青年バックリーにとって一種の“保守主義宣言”でもあった。

2005年11月にウォール・ストリート・ジャーナル紙の編集者のインタビューに答えて、彼は「イエール大学は次第に保守主義と宗教に敵対的になっていた。それは偉大な大学の非伝統化を示すものであった」と、当時を回顧しながら答えている。そして自分の本によって人々は大学における“イデオロギーのバランス”を意識するようになったとも語っている。

ただ同書に対して校友で後にケネディ政権で安全保障担当補佐官になるマクジョージ・バンディは「本書は事実の扱いにおいて不誠実で、理論的にも偽りがあり、著者を信用することはできない。乱暴で事実を捻じ曲げた無知な若者である」と厳しい批判を行っている。いかなるものにも毀誉褒貶はつきものだが、同書を執筆したことがバックリーの将来に大きな影響を与えてことは間違いない。

バックリーは反共主義者である。大学4年の時、「イエール・デイリー・ニュース」の編集長に選ばれ、当時アメリカで吹き荒れていた赤狩りのマッカーシー旋風を擁護する主張を紙面で展開している。1958年には義弟のブレント・ボーゼルと共著で『マッカーシーと彼の敵』と題する本を出版するなど、一貫して狂信的反共主義者ジョセフ・マッカーシー上院議院を擁護している。これは大学時代の彼のメンターであったジェームズ・バーナム・ニューヨーク大学教授やタイム誌の編集者ウィタカー・チェンバーズの影響を強く受けたためかもしれない。両者はいずれも元共産党員で強烈な反共主義者あった。この二人は、後年、「ナショナル・リビュー」の編集者や寄稿者としてバックリーと一緒に働くことになる。

バックリーはイエール大学時代、興味深い経験をしてえる。元トロッキストで同大学の教授であったウィルムーア・ケンドールの紹介でICA(中央情報局)と接触を持ち、数年間、CIAのエージェントとして働いている。またジョージ・H・W・ブッシュと交友を結び、彼が副大統領になったとき息子のクリストファーは彼のスピーチライターとして働いている。また学生の秘密結社である「スカル・アンド・ボーン」にも加わっている。

バックリーが「ナショナル・リビュー」を創刊するのは1955年のこと。この時、まだ二八歳であった。父親から提供された10万ドルを元手に雑誌を立ち上げる。創刊数年は1万部程度の発行部数で推移するが、ゴールドウォーター上院議員が共和党の大統領候補になった1964年に発行部数は12万部を超えるまでに増えている。当時、「ヒューマン・イベント」という保守派の一般大衆向け新聞があったが、「ナショナル・リビュー」はインテリ層を読者対象としていた。バックリーは同誌の創刊によって本格的に保守主義運動の発展に取組始めることになる。先に紹介したウォール・ストリート・ジャーナル紙とのインタビューで
バックリーは「『ナショナル・リビュー』は自分の最大の功績である」と語っている。

バックリーは「ナショナル・リビュー」での活動を通して胡散臭い保守主義運動を“知的な保守主義運動”へと昇華させ、さらにそれを“政治的な保守主義運動”へと発展させていった。「ナショナル・リビュー」は保守主義者の知的センターの役割を果たしたのである。バックリーの言葉を借りれば、「偏見のない思想の公開実験場」であった。それまで孤立し、表現の場所を持たなかった保守主義者が生き生きと意見を発表する場が与えられたのである。バックリーは、リチャード・ウィーバーやラッセル・カークという大物の保守主義者の主張を紹介するだけでなく、若い論者にも発表する機会を与えた。「ナショナル・リビュー」の創刊の辞は「本誌は歴史の流れを阻止し、“止まれ”と叫ぶものである」。すなわちリベラリズムの流れを阻止することが目的であった。
リンダ・ブリッジとジョン・コインはバックリーと保守主義運動について書いた本『ストリクトリー・ライト』の中で「彼の目的は保守主義が政治的な大衆運動に発展することを見ることであった。その目的を達成するために『ナショナル・リビュー』を創刊し、寄稿者にリベラル派と論争するように勧めた」と書いている。

当時、同誌はまだ取るに足りない存在であった。1959年に出版した『アップ・フロム・リベラリズム』の中でバックリーは「リベラリズムは強力だが頽廃的である。保守主義は脆弱だが生き生きとしている」と書いている。まさに「ナショナル・リビュー」では活発な議論が行われ、保守主義の思想の深化が進んだ。2005年のウォール・ストリート・ジャーナル紙でのインタビューの中でバックリーは「『ナショナル・リビュー』は議論と創造的エネルギーに満ち溢れ、ページはお互いに競合しあう哲学と政治の分析で埋まっていた」と述懐している。

融合主義による保守主義の統合

バックリーは理論家ではなかった。組織を作り上げる優れた能力を持っていた。「ナショナル・リビュー」が保守主義者を結集できたのは、“融合主義(フュージョニズム)”という考え方によって立場の保守主義者が共通の目的を持つようになったからである。

当時、保守主義には三つの流れがあった。まず近代的合理主義が西欧文化の衰退を招いたと主張するウィーバーや社会的秩序の維持や宗教性の重要性を説くカークなどの伝統主義者がいた。また自由市場や小さい政府を主張するリバタリアン(自由主義者)がいた。このグループにはヨーロッパで全体主義の実態を体を持って経験し、社会体制を批判するフリードリッヒ・ハイエクやルートヴィッヒ・ヴォン・ミーゼスや、マネタリストで知られるミルトン・フリードマンなどがいた。彼らは保守主義という概念で一緒に語られるが、その世界観は大きく違っていた。カークは「ハイエクは人間の本性について間違った前提に立っているおり、経済原則で人は救えない」と批判。これに対してハイエクは「なぜ自分は保守主義者ではないのか」という論文で「伝統主義者は敵と戦う原則もプログラムもなく、過剰にナショナリスチックである」と反論を加えている。

“自由”を主張するリバタリアンと“秩序”を主張する伝統主義者の間に溝は大きかった。“自由”と“秩序”は両立しがたいものである。三つ目のグループは反共主義者であった。

この三つのグループで唯一共通するものがあるとすれば、それは反共主義であった。またルーズベルト大統領のニューディール政策も大きな政府を招き、やがては全体主義に至ると批判していた。ハイエクの名著『隷属への道』は、そうしたメッセージを送っていた。しかし、保守主義者たちは思想的な対立を克服し、大同団結する手立てがなかった。その道を開いたのは、ジャーナリストのフランク・メイヤーであった。彼は、伝統主義者の主張する秩序や人間の美徳を達成するには、リバタリアンの説く自由があって始めて可能であると主張した。これが「融合主義」である。基本的な主張をそのままにして、お互いに目的に向かって協力できる道を開いたのである。「ナショナル・リビュー」は融合主義を実践する場所となった。

もうひとつバックリーが保守主義運動で果たした重要な役割があった。それは極端な反共団体であるジョン・バーチ協会や反ユダヤ主義者、孤立主義者などを運動から追い出したことだ。それによっていかがわしいイメージがあった保守主義運動を知的な運動に脱皮させたのである。また、1966年から始めたトークショウ“ファイヤリング・ライン”は一般の人々が抱く保守主義に対するイメージを大きく変える役割を果たした。

次にバックリーは具体的な政治活動に着手する。1960年に「ヤング・アメリカン・フォー・フリーダム(YAF)」を設立し、保守主義運動に若者を動員する。この年は大統領選挙の年で、保守主義者が支持するゴールドウォーター上院議員がニクソン副大統領と大統領候補指名を巡って競いあっていた。YAFはゴールドウォーターの選挙の実動隊として活動を展開した。60年の指名選挙で敗れたゴールドウォーターは64年にはネルソン・ロックフェラーを破って共和党の大統領候補に選ばれた。YAFから育って若者が、やがて保守主義の政治運動の担い手となっていく。バックリーは保守的な若者のロール・モデルとなっていた。

1964年の大統領選挙でゴールドウォーターはジョンソン大統領に大敗を喫する。この敗北は保守主義運動の転換点となった。60年代はリベラリズムが最高潮に達した時代である。ジョンソン大統領はニューディール政策の総仕上げともいうべき「偉大な社会プログラム」を掲げ、「貧困との闘い」をアジェンダとして打ち出していた。だが、それは同時にリベラリズムの衰退の始まりであった。ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカ経済の衰退が明らかになっていく。

バックリーなどの保守主義者はゴールドウォーターに代わって保守主義を代弁する政治家を求めていた。それがカリフォルニア州知事のドナルド・レーガンであった。レーガンは後年、「ナショナル・リビュー」の創刊号からの愛読者であることを告白し、創刊号はざら紙に包まれていたという思い出も語っている。当時、レーガンは民主党員であった。「ナショナル・リビュー」は、彼に非常に大きな影響を与えたのである。そして1980年の大統領選挙でレーガンはカーター大統領を破って、初めて自ら保守主義者と名乗る大統領が誕生したのである。

1980年の大統領選挙が終わった後の12月に「ナショナル・リビュー」の創刊二五周年のパーティが開かれた。その席で保守派の評論家のジョージ・ウィルは「1980年にアメリカの保守主義は成人になった。この偉業を成し遂げた人物はバックリーである。レーガンの前にゴールドウォーターがいた。その前に『ナショナル・リビュー』があった。さらにその前に心の中に火花を持つバックリーがいた。その火花が1980年に大きな火となって燃え上がった」と、バックリーの保守主義運動の勝利を祝った。

1980年11月28日号の「ナショナル・インタレスト」は「ドナルド・レーガンの大統領当選によって、『ナショナル・インタレスト』はアメリカで新しい重要な役割を担うことになった。我々は“エスタブリッシュメント”になった」と誇らしげに書いている。

リベラル派のニュー・リパブリック誌の編集者ジョン・ジュディスは同誌の2008年2月28日号に「彼は反逆者であったが異端者ではない」と題する記事を書いている。その中でバックリーは“反エスタブリッシュメント”であると指摘している。そして「バックリーは1980年代に共和党の保守主義の中心的な人物でなくなっていく」と指摘している。バックリーは、ニューディール・リベラルのエスタブリッシュメントに挑む反逆者であった。だが保守主義の大統領が誕生したことで、自らがエスタブリッシュメントになったのである。その頃から、彼の存在感は急速に薄れていった。また世界情勢の新しい変化も保守主義運動に微妙な影響を与えた。それはソビエトの崩壊である。本来ならこれは反共主義者にとって歓迎すべき出来事であるが、同時に彼らは大きな目標を見失うことになる。

さらにまったく異質の保守主義者が保守主義運動に参加してくる。彼らは民主党のイスラエル政策に不満を抱き、民主党と袂を別ったグループであった。彼らはレーガン政権の政策の中枢に陣取り、レーガン政権の外交政策に大きな影響を与え始めた。彼らは“ネオコン”と呼ばれ、伝統的な保守主義者とは一線を画していた。彼らは共産主義に代わる新しい敵を探していた。
ジュディスは続けて「バックリーは共和党の保守主義の新しいエスタブリッシュメントに対して古いエスタブリッシュメントに対して感じていたのと同じアンビバレントな思いを抱いていた。保守主義者が権力を手に入れたため、バックリーは再び“歴史の流れを阻止し、”止まれ“と叫んでいる自分を発見したのである。彼は最後まで反逆者であった」と、バックリーの心の中の思いを見事に分析している。

保守革命が成就したことで保守主義運度も変質していくことになる。ウィーバーやカークといった伝統主義者は完全に保守主義運動から消えていく。彼らの主張を受け継ぐのが評論家のパット・ブキャナンなどのグループで、“ペイレオコン”と呼ばれた。“ペイレオ”は「古い」とか「旧」を意味する接頭語である。彼らは孤立主義を主張し、国際化や自由貿易に反対していた。彼らは、冷戦が終わったときアメリカは海外でのコミットメントを解消し、米軍はすべて引き揚げるべきであると主張した。また湾岸戦争は、ネオコンがイスラエルと組んだ陰謀であると主張した。彼らは共和党エスタブリッシュメントにも挑戦する。ブキャナンは1992年と1996年に第三党から大統領選挙に立候補している。こうしたドンキホーテ的な挑戦は国民の支持を得ることはなかった。

ネオコンは“アメリカ民主主義”を世界に広げるという使命を抱いて、野心的な外交政策を立案する。ブキャナンは、そうしたネオコンに対して違和感を抱いていた。ネオコンがアメリカの力と影響力を過大評価していると感じていた。クリントン政権が誕生し、多くのネオコンは野に下った。若い世代のネオコンを代表するウィリアム・クリストルやロバート・ケーガンはシンクタンク「アメリカ新世紀プロジェクト」でアメリカの国際的な指導力の確立を目指す戦略の検討を行っている。もっと具体的にいえば、イラクのサダム・フセインを放逐する中東戦略を練っていた。それが2003三年のイラク侵攻への布石になっていく。

もうひとつの保守主義運動の変化は、キリスト教右派の影響力の拡大である。膨大な動員力と資金力を持つエバンジェリカル(福音派)グループが、大きな政治力を発揮するようになる。キリスト教右派は中絶や同性婚、再生細胞の研究など倫理面で共和党に対して大きな影響を与え始める。

リバタリアンも市場主義、小さな政府、自己責任などを柱とするネオリベラルの経済政策を打ち出し、アメリカ国内に留まらず各国にもネオリベラルの経済政策を採用するように求めていく。ワシントンに本部を置くIMF(国際通貨基金)や世界銀行と協力し、“ワシントン・コンセンサス”に基づいて途上国の経済政策に深く関わっていく。もはや初期の頃のような牧歌的な保守主義運動は消えてしまったのである。

サム・テネンハウスは「ニュー・リパブリック」誌(2008年3月19日号)に「バックリーは過去25年間のアメリカの政治を支配してきた保守主義運動が解体していくのを眺めている。その保守主義運動は誰でもないバックリーが作り出したものである」と書いている。

ロサンジェルス・タイムズ紙が「バックリーは最も激しいブッシュ大統領の批判者」であると書いていることは既に紹介した。「ブッシュ大統領は保守主義者か」と聞かれて、バックリーは「彼は保守的だが、保守主義者ではない」と答えている。ブッシュ政権のイラク政策にもきわめて批判的であった。2003年に書いたエッセイの中で「我々は大量破壊兵器を製造する能力を取り除き、民主主義の祝福を輸出するためにイラクに行った。しかし、我々は成功しなかった」と語っている。ハイルブランは「バックリーは中東に民主主義の要塞を一晩で作るという考えに懐疑的であった」と書いている。「権利の章典も民主主義の経験もない国に民主主義を植え付けるのは至難の技である」と語っている。

2007年のイラク増派に対しても「もし自分が下院議員ならブッシュ大統領の増派提案に反対票を投じていただろう」と書いている。特にブキャナンを失望させたのは、ガンタナモ基地などで行われた拷問であった。「もしアメリカが議院内閣制ならブッシュ大統領は当然辞任に追い込まれているだろう」と書いている。

ブッシュ大統領に対する批判は、同時に現在の保守主義運動に対する失望に結びついている。「ソビエトという脅威がなくなったことで保守主義を縫い合わせる糸がなくなった。そのため保守主義は少しばかり怠惰になってしまったと思う。脅威がなくなれば、衰退が始まる。現時点では、こうした衰退を解決することはできない」と厳しい指摘をしている。

ハイルブランは「現在の『ナショナル・リビュー』の若い編集者たちはネオコン的世界観を受け入れており、古い世代にとって大きな屈辱となっている」と指摘している。バックリーとともに若い世代の保守主義者は育ってきた。しかし、バックリーに匹敵する若い保守主義者は登場していない。ハイルブランは「アン・コウルターなど若い保守主義者はいるが、彼らは“安っぽいバックリー”にすぎない。彼らとバックリーの違いは、彼らは私的な悪意や恨みからリベラルのエリートを批判しているのに対して、バックリーは分析に基づいて行ってきた」と、世代間の保守主義の担い手の知性の指摘している。確かに若い保守主義者の発言を見ていると、信念に基づくというよりは商業主義的な臭いを感じることある。

リベラリズムが衰退し始めたのは60年代から70年代で、“リベラルの過剰”の時代であった。それまでニューディール連合を支えてきた南部の中産階級や動労階級が民主党離れを起こしたことが、衰退の理由の一つであった。今、アメリカで起こっていることは、“保守主義者の傲慢”である。

バックリーは極めて寛容な人物であった。彼の最も親しい友人の一人はリベラル派を代表する経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスであった。ガルブレイスもバックリーを「私が会った中で最もユーモアのセンスがある保守主義者である」と印象を語っている。逆にいえば、若い世代の保守主義者は必要以上に攻撃的で非寛容である。ある評論家は融合主義が50年も保守主義運動を支えてきたのは、バックリーの存在があったからだという。

保守主義の政治の担い手がいない

レーガン革命は融合主義に基づき、三つの保守主義グループが連合したところに成功の要因があった。レーガン大統領は三つの保守主義グループをまとめあげて“レーガン同盟”を作り上げ、それが共和党の政治基盤を作り上げてきた。だからこそレーガンは保守主義を代表する政治家と高い評価を得たのである。ジョージ・W・ブッシュが2000年にゴア副大統領を破って大統領に当選したのも、まだ“レーガン同盟”の支持を得たからである。

冷戦の終焉で反共主義者はいなくなった。その代り“外交的に強いアメリカ”を実現すべきだという外交タカ派が保守主義の一角を占め、軍事力の強化を主張している。伝統主義者の主張はキリスト教右派に吸収された感がある。リバタリアンは依然として減税や小さい政府、自由化を主張している。そうした保守主義者の主張を受け止める政治家がいた。最初はゴールドウォーターであり、次がレーガン大統領であった。そしてブッシュ大統領は、保守主義者の期待を担って大統領に就任したのである。しかし、現在、共和党の中には三つのグループをまとめあげる政治家は見当たらない。

夏に開かれる共和党全国大会でマケイン上院議員が共和党の大統領候補に正式に指名されることになるだろう。だが彼の支持基盤は外交政策のタカ派グループである。リバタリアンやキリスト教右派は反発を強めている。現在、マケイン議員が保守主義者であるかどうかが問われているのである。

昨年の9月、ワシントン保守主義者の政治行動会議が開催された。例年、マケイン議員は招待されているが、今まで出席した
ことはなかった。しかし、大統領予備選挙を控え、同議員は会議に出席した。同議員が演説を始めると会場から一斉にブーイングが浴びせかけられた。同議員は演説の中で何度もレーガンに触れ、さらにバークには二度言及している。それはマケイン議員の保守主義者に対する精一杯のサービスであった。

しかし、保守派の団体であるフォーカス・オン・ザ・ファミリーのジェームズ・ドブソン会長は「マケイン議員が保守主義者でないことも知っている。マケインは我々のメンバーではない」と答えている。さらにコールターは2008年1月31日にテレビ局フォックス・ニューズのトークショーに出席し、司会者のショーン・ハニティの「本当の保守主義者はマケイン議員を最終的に支持することになるのだろうか」との問いに対して、「マケイン議員に投票するくらいならヒラリー・クリントン上院議員に投票する」と強硬な姿勢を取っている。移民問題やガンタナモ基地での拷問に反対したことが、マケイン議員不支持の理由であった。

もともとマケイン議員は共和党の中でもリベラル派とみられている。どういう理由であれ、マケイン議員は保守主義者が支持できない候補者である。彼は同性愛者の結婚には反対しているが、保守主義者が求めるように憲法を改正してまで禁止することには反対している。また地球温暖化に対しても国際協調の重要性を訴えて、リバタリアンや企業の反発を買っている。二度にわたるブッシュ大統領の大幅減税に反対票を投じ、サプライ・サイドの経済学に対して懐疑的であるのも、リバタリアンの不満の原因となっている。完全に“レーガン連合”は崩れ去っているのである。

逆にいえば、もともと異なった主張の保守主義グループが一本化して候補者を支持することが難しいのかもしれない。レーガン大統領のような強力な指導者がいたことで、融合主義的な連合を結成することが可能だった。

もしマケイン議員が無党派や民主党の支持層に食い込めば、それなりの票を獲得できるだろう。事実、ロイター通信が行った最近の世論調査では、マケイン議員の支持率は45%、オバマ議員の支持率は45%と接戦を演じている。この調査結果からすれば、マケイン議員にもまだ勝算はあることになる。選挙の予想をするのは困難だが、マケイン議員が大統領選で敗北しても、また勝利しても、保守主義運動は大きく変わってくるだろう。シュレジンジャーの政治循環説が正しければ、保守主義運動も新しい展開を迫られることになるだろう。バックリーの死は、それを予兆されるものかもしれない。

2件のコメント »

  1. 中岡望さま

    はじめまして。同じ世代(1948年生まれ)で、アメリカのロードアイランド州に永住しています。William Buckley Jr. が日本でどれくらい知られているのだろうと思ってグーグルしたら、中岡さまのサイトをヒットしました。

    日本人でアメリカの政治をご存知の方がお書きになったものを見ると、なんだかうれしくなります。私はまだ「修行中」ですが、2006年頃からアメリカの政治がとても面白くなり、今年の大統領選挙では、予備選からテレビやネットの政治サイト・ブログにかじりつく「おたく」化していました。

    Buckley に興味を持ったのは、一人息子のChristopher経由です。10月にバラク・オバマ支持を表明したために、親父さんが創設したNational Review のコラムニストを辞退しようかと辞表を提出したところ、いともあっさりと受理されたことで、大きな話題になりましたね。彼が今年8月に出版した”Supreme Courtship”という政治風刺小説はお読みになりましたか?

    私は某週間新聞に書評を書きましたが、抱腹絶倒!あのおぞましいセーラ・ペイリンを髣髴させる登場人物が出てきたりで、面白いのなんの。私は、もうすっかりChristopherファンです。

    私自身はsocial liberal ですが、Buckley 親子のような保守派なら好きです。まともな議論ができて、楽しいだろうと思います。マケイン・ペイリン ticket の敗北のおかげで、共和党および保守派は内省を迫られることになったわけですが、これはなかなかよろしい、面白いことになってきたなと、野次馬的によろこんでいるところです。

    コメント by 安原 三重子 — 2008年12月3日 @ 21:00

  2. [...] 鐚’œˆ垩€�ƒ<ƒ潟‚冴ƒ�ƒ潟ƒ�€’茯㏍‚“с„€鐚•鐚“ƒšƒ若‚吾сƒ≪ƒ‡ƒŒœ‚’Š宴ˆ„‚‹“‚‚’™肴‹€‚‚ˆ頳‹‚‹€サ綛岩此cŸ€Œ‚≪ƒ<ƒ‚憘撮篆絎ˆ筝紫奨‡ョ€‚‚cƒ‚≪ƒƒ誌痔ƒ祉ƒƒƒ‚ƒƒ若‘鐚™鐚˜鐚”綛眼‡榊‰ˆ•‚ŒŸ篌荐˜€‚€�ƒ<ƒ潟‚冴ƒ�ƒ潟ƒ�€€Œƒ‡ƒ‹ƒ‚激ƒcƒ„ƒŸƒƒ‚‚鴻€‚‚c訓„”炊音š„ƒ<ƒƒ‚祉ƒ若‚吾Œ‚‚‹‚†‹€‚”水œ閞<‚’絨•™‚‹茯•™‹€‚ [...]

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