中岡望の目からウロコのアメリカ

2009/2/11 水曜日

オバマ政権のNO.2ラーム・エマニュエル首席補佐官の実力を評価する

Filed under: - nakaoka @ 11:19

リベラル派を代表する政治家と見られていたオバマ大統領は選挙戦後半から軸足を中道派に移し、ワシントンに入って以降も共和党との妥協点を探る超党派路線を推し進めています。「アメリカ復興・再投資法」では、下院の共和党は全員反対、上院でもわずか3人の共和党議員の支持しか取り付けられませんでした。政治的両極化を克服し、アメリカを統合するというのが同大統領の公約でもありましたが、現実の政治はそう簡単ではないようです。オバマ大統領の首席補佐官のラーム・エマニュエル前下院議員は逆に党派性を全面に出し対決も辞さず、政策を実現するには敵が必要だと主張する人物でした。ただ、政権発足後の行動を見ているとオバマ大統領と完全に歩調を合わせ、極めて現実的な対応を取っています。今回はエマニュエル首席補佐官の人物論を紹介しますが、この原稿は『中央公論』(2009年2月号)に掲載した記事の元原稿です。

11月6日、バラク・オバマ次期大統領はラーム・エマニュエル下院議員を首席補佐官に指名する発表を行った。しかし、歴代の政権で首席補佐官の人事がこれほど注目されたことはなかった。この人事は次期政権の最初の重要な人事であった。それだけに、オバマ次期大統領がどんな内閣をイメージしているのかを示す重要な意味を持っていたからだ。また、“ノー・ドラマ”を基本方針に選挙運動を進め、常にロー・プロファイルを貫いて来た次期大統領が、エゴを丸出しにするまったく対照的な性格を持つエマニュエルをホワイトハウスで最も権力のある地位に指名したことも、一種驚きを持って受け止められた。

二人はシカゴを地盤にワシントンの政界に進出してきた共通点がある。個人的には極めて親しい関係であるが、それだけでオバマ次期大統領がエマニュエル議員を首席補佐官に抜擢するには根拠が希薄すぎた。2007年に出版されたエマニュエルの評伝『ザ・サンピング』(ナフタリ・ベンデヴィット著)の中でバラク・オバマという名前は数えるほどしか出てきておらず、しかも実質的な言及はまったくみられない。オバマ次期大統領はエマニュエルにとって親しい友人以上の何者でもなかった。

二人が親しい関係になったのは、オバマ次期大統領が上院議員に当選し、ワシントンに出てきた2004年以降のことである。二人の間を取り持ったのはオバマ次期大統領の腹心中の腹心デビッド・アクセルロッドであった。エマニュエルは2002年の選挙で下院議員に当選しており、オバマ次期大統領よりも一足先にワシントンの政界進出を果たしていた。ただ大統領選挙中、エマニュエルはヒラリー・クリントン候補とオバマ候補に対して中立的な立場を守り、オバマ支持を打ち出したのは予備選挙が終わってからである。それはクリントン政権で大統領の上席顧問を務めるなど、エマニュエルがクリントン一家と特別な関係を持っていたからである。

オバマ次期大統領は記者会見で「私が最初にこの人事を決定したのは、首席補佐官は大統領と政府が政策目標を達成する鍵を握っているからだ。私はラーム・エマニュエル以外に政策を成し遂げることのできる人物を知らない」と、最大限の言葉を使ってエマニュエルを紹介している。

エマニュエルは「私が愛する職務を離れてあなたのホワイトハウスのスタッフに加わるのは、単純な理由からです。記録的な人々が投票したように、私もアメリカが必要とする変化を実現するのを支援するために私のできることなら何でもするつもりです」と答え、さらに続けて「今こそ統合の時である」と共和党に協力を呼び掛けている。

オバマ次期大統領は11月4日の選挙の翌日にエマニュエルと首席補佐官に任命することを決め、エマニュエルに伝えていた。だが、彼は即答を避けた。なぜならエマニュエルは民主党幹部会(デモクラッツ・コーカス)議長の要職にある。これは党内での序列は四位に当たり、将来は院内総務、下院議長のポストも約束されていると見られていた。首席補佐官は大統領の最大の側近であり、政策決定だけでなく個人的にも大統領に対して非常に大きな影響を持ちうる立場にある。しかも1日18時間労働と言われるほどの激務である。下院議員に留まれば、長期的に影響力を維持し、輝かしい将来が待っている。首席補佐官になれば、その職に最大限留まっても八年、場合によってはもっと短くなる可能性もある。周辺の情報によれば、エマニュエルは苦しんだ。だが最終的にオバマ次期大統領の要請を受け入れた。

関係者は、この人事に対して二つの疑問を発した。最初の疑問は「オバマ次期大統領がなぜエマニュエルを最も重要なポストに選んだのか」。もうひとつは「なぜエマニュエルがオバマ次期大統領の要請を受け入れたのか」ということである。その二人の心の中にどんな思いがあったのか分からない。しかし、この人事はオバマ次期政権の特徴を解く重要な鍵になるかもしれない。また、エマニュエルがオバマ政権に絶大な影響を与えることは間違いない。彼には、それだけの実績と圧倒的な個性を持っている。

オバマ次期大統領がそこまで高い評価を与えているエマニュエルとは何者なのだろうか。彼は2002年に下院議員に初当選し、2006年に民主党議会選挙委員会の委員長に就任、2007年に民主党幹部会議長に選出されるなど、わずか6年で民主党を代表する有力議員にのし上がっている。クリントン政権で大統領顧問を務めた経歴があるにしても、異例の出世であることは間違いない。

九本指のユダヤ人

エマニュエルは1959年11月29日生まれで、現在49歳である。ちなみにオバマ次期大統領は1961年生まれの47歳である。二人は同世代である。エマニュエルはシカゴ郊外の中産階級の人々が住むウィルメッテという町に生まれている。父親はイスラエル独立前の活動家で、その後アメリカに移民してきたユダヤ人である。現在は小児科の医師として働いている。母親は組合運動のオルグの娘で、その影響もあり市民権運動などに関わってきた経歴を持っており、現在はソーシャルワーカーとして働いている。

三人兄弟で、養女の妹がいる。三人兄弟はクローンと言われるほど似ていた。「家庭では政治と市民権運動が生活の一部だった」と長兄のエゼキールは少年時代の家庭の雰囲気を語っている。週末になると家族そろって美術館に行ったり、バレーを観にいったりする知的な雰囲気に溢れていた。ただユダヤ人の家庭に特有な家族観を持ち、家族の名を上げるためにお互いが常に競争し合っていた。そうした家庭の雰囲気が、エマニュエルの強烈な自己主張をする性格に反映しているのかもしれない。現在、三兄弟はそれぞれ社会的に名を成している。

エマニュエルは少年時代、バレーのレッスンを受けていた。持ち前の集中力でめきめき上達し、ニューヨークの名門バレー学校ジョフリー・バレー・スクールの奨学金が貰えるまでになったが、彼はそれを断り、ニューヨークの有名なサラ・ローレンス大学に進学している。

高校生の頃、ファーストフード・レストランで夏休みの仕事をしているとき、ミート・スライスで右手の中指を切った。治療をせずに湖に泳ぎに行ったため、傷口が感染し、中指の半分を切断する手術を受けている。中指がないことが彼の攻撃的な性格と重なって様々な尾ひれがついて湾岸戦争の時にイスラエル軍の参加し、爆撃で吹き飛ばされたと彼にまつわる伝説のひとつになっている。『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事の中でエマニュエルは“九本指のユダヤ人”と呼ばれているが、これも彼の勲章のひとつだろう。

サラ・ローレンス大学を卒業すると、エマニュエルはシカゴに戻り、地元のノースウエスタン大学の大学院に進学する。八五年に大学院を卒業し、コミュニケーション専攻で修士号を取得している。彼が政治に関わり始めるのは大学院のころからである。ポール・サイモン民主党上院議員などの選挙運動に参加している。
本格的に政治の世界に足を踏み入れたのは89年の市長選挙で再選を目指すリチャード・デイリー候補の選挙運動に携わってからである。選挙運動の献金集めの責任者として採用され、非常に大きな実績をあげた。わずか13週間で700万㌦の献金を集めたのである。支持者に電話をかけ、献金を呼び掛けるという単純な仕事であったが持ち前の強引さを発揮し、支持者になかば脅迫まがいで献金を迫った。デイリー市長のもとに多くの苦情が寄せられたが、結果的には大きな成果を上げ、デイリー市長に認められることになる。

同市長はシカゴの政界で隠然たる力を持ち、この時の同市長の関係が、2002年に彼が下院議員に立候補するときに生きてくる。普通、同市長は党の予備選挙では誰も支持しない立場を取っていたが、エマニュエルは直接同市長に会いに行き、実質的に支援を得て自分は“メイヤーズ・ガイ”だと主張し、それが予備選挙での勝利の大きな要因となった。

91年に湾岸戦争が起こるが、彼はイスラエル軍にボランティアとして参加、トラックの修理などの仕事に携わっている。こうした行動は彼の強烈なユダヤ人意識を反映したもので、首席補佐官に指名されたとき一部の批判者の間からオバマ次期政権のイスラエル政策が歪むのではないかと懸念する声が聞かれた。

イスラエルから帰国すると、新しいチャンスが待ち構えていた。大学院時代に一緒に社会活動をしたデビッド・ウィルヘルムからビル・クリントンの大統領予備選挙を手伝わないかと声がかかったのである。クリントン陣営は選挙資金が集まらず苦境に立っていた。シカゴ市長選で発揮した資金集めの能力が買われ、彼はリトルロックに出かけ、資金集めの責任者になる。

クリントン大統領の政策顧問へ

スキャンダルと資金不足で選挙運動がおぼつかなかったクリントン陣営が息を吹き返したのはエマニュエルのおかげであった。リトルロックに着くとスタッフに自己紹介する機会があった。彼はいきなりテーブルの上にあがり、45分にわたってスタッフを怒鳴りつけたのである。選挙スタッフはその傲慢さと強引さに呆れかえったが、彼は20日間に26回、選挙資金を集める集会を開き、330万㌦集めたのである。後にクリントン元大統領は「もしエマニュエルがいなかったら選挙に勝てたかどうかわからない」と語っている。

こうした貢献を通してエマニュエルはクリントンの信頼を得ていく。その結果、31歳でホワイトハウスの政治ディレクターに任命される。だが彼の傲慢さや強引さは常に敵を作ってきた。最初の敵はファースト・レディのヒラリー・クリントンであった。彼女はエマニュエルの辞任を要求する。だがエマニュエルは「大統領が直接辞めろと言わない限り辞めない」と言い張る。それは絶対クリントン大統領が「辞めろ」と言わないことを知った上での主張であった。結果的にディレクターのポストを外され、プレスルームに小さな部屋をあてがわれて、危機を乗り切った。

その後、持ち前の闘争力を発揮し、大統領の上席顧問として返り咲く。そしてクリントン大統領の政策の実現に貢献することになる。彼の最大の成果は、NAFTA(北米自由貿易協定)を批准させたことである。批准にあたって最も重要な役割を果たしたと言われている。見事な復活であり、彼は政治闘争を生き抜く強烈な個性と行動力をいかんなく発揮した。クリントンの“政治ブレーン”と呼ばれるまでにホワイトハウスの中で存在感を高めていった。いわばブッシュ大統領のブレーンと言われるカール・ローブ副主席補佐官に匹敵する存在と言っても過言ではない。

こうした経歴が、オバマ次期大統領がエマニュエルを首席補佐官に指名した理由のひとつかもしれない。自らが全面に出て指揮することを嫌うオバマ次期大統領にとって、ホワイトハウスの権力構造を知りつくし、同時に短期間で民主党の幹部までのし上がったエマニュエルの能力は何物にも代えがたいものに映ったのかもしれない。

さらに下院議員に立候補する前にエマニュエルはもうひとつの勲章を手に入れる。ワシントンは子供の教育に良くないとホワイトハウスのポストを辞任し、M&Aの専門投資銀行ワッサースタイン・ペレラ社(現在のドレスナー・クラインオート社)に入社し、シカゴ支店の責任者に就任する。2002年に下院議員に立候補するまで同社に勤め、本人の証言によれば、この間に八件のM&Aを実現し、勤務していた2年半で1620万㌦の収入を得ている。この時の人脈が下院議員になって生きてくる。

2008年9月に金融危機に対処するためにヘンリー・ポールソン財務長官は金融機関を救済するために「緊急経済安定化法」を提案する。エマニュエルは民主党議員を説得しい、同法案の成立に大きな役割を果たしている。そうした行動から、批判者はエマニュエルをウォール街の代弁者だと批判している。しかし、金融危機への対処を迫られるオバマ次期大統領からすれば、金融界の実務経験を持つエマニュエルは力強い存在であることは間違いない。

民主党を復活させた男

エマニュエルが本当の頭角を現すのは下院議員になってからである。ホワイトハウスのスタッフの経歴があるからといって新人議員に過ぎない。アメリカの政界も序列が物を言う。しかし、2004年の大統領選挙と議会選挙で民主党は大敗する。政策と戦略のなさ、資金力の不足は目を覆うばかりであった。完全に自信喪失の状況にあった。そんな中で党幹部は政治資金集めで飛び抜けた実績を持つエマニュエルに期待をかけ、民主党議会選挙委員会(DCCC)の委員に推挙したのである。

彼は政治献金や選挙資金集めで成功を収めるが、それだけでは一気に民主党の幹部の地位を手に入れることはできない。民主党には共和党のような草の根の選挙運動組織は存在しない。インテリは多いが、ドブ板政治ができないのが民主党である。DCCCの役割はふたつある。ひとつは選挙資金の調達であり、もうひとつは候補者のリクルートである。彼は共和党の地盤が弱い選挙区に保守的な候補者を立候補させたのである。民主党にとって中絶問題や銃規制問題は極めて重要な問題である。しかしエマニュエルは選挙に勝てる見通しがあれば、中絶は銃規制に反対する候補者を敢えて立候補させた。共和党に流れていた民主党保守派を帯び戻すだけでなく、共和党の一部も取り込む戦略であった。

また現職の議員に対して選挙資金の用途の明細の提出を求め、選挙資金活動の状況をこと細かくDCCCに報告することを要求した。現職議員から不満が噴出したのは言うまでもない。だが恫喝とも思える対応で反対派を圧倒していく。

さらに彼はブッシュ政権を批判するだけでは選挙に勝てないと考えていた。いかに前向きかつ明瞭な民主党のメッセージを送るかを考えた。一九九四年の中間選挙で共和党は両院で過半数を占めた。それを指導したのがニュート・ギングリッチ下院議員だった。彼は『アメリカとの契約』を旗印に、国民に対して極めて明確なメッセージを送ることに成功している。エマニュエルは「私はギングリッチのエネルギーと思想を称賛する。クリントン政権は過ちを犯し、彼はそれを利用した。今まさに私がやろうとしていることはギングリッチがやったことだ」と語っている。単にブッシュ政権の批判をするだけでなく、国民が理解できるような簡潔なメッセージを送らない限り選挙では勝てない。

彼は中間選挙の年の2006年に『ザ・プラン』という本を出版し、今アメリカに必要なプランは何かを訴えた。その政策の柱は、国民保険制度の確立、大学の学費免除、財政赤字削減、輸入原油依存の低下などである。さらに彼は「民主党は変化の党である」ことを有権者に訴えた。それは、後のオバマ次期大統領の選挙スローガンでもある。本の共著者でクリントン政権で同僚だったブルース・リードは「ラームはアイデアことが問題であり、自分のメッセージが何か理解していた。彼は選挙で勝利することだけを考えていた」と語っている。

2006年は共和党の幹部のスキャンダルが続発していた。彼は国民の間に反ワシントンのムードを作り上げていく。それは二〇〇四年に共和党の大勝利を演出したカール・ローブの戦略でもあった。ギングリッチとローブという共和党の戦略家から教訓を学び、2006年の中間選挙で民主党は両院で過半数を回復したのである。

まさにエマニュエルの勝利であった。イラク戦争、ブッシュ大統領の不人気、共和党議員のスキャンダルという追い風があったが、下院で議席数を31議席増やして233議席とした。共和党は202議席となり、民主党は下院で圧倒的多数を占めたのである。

政治の風は変わった。頭で考えるが行動力のない民主党に文化革命をもたらしたのである。エマニュエルの選挙戦略は2008年の選挙にも引き継がれていく。要するにエマニュエルにとってイデオロギーは問題ではなく、いかに選挙に勝つかが問題であった。

選挙での大勝を背景にエマニュエルは民主党下院の院内総務の地位を狙う。それは選挙後、下院議長に就任したナンシー・ペロシ議員に次ぐ第二位の序列である。ペロシ議長はエマニュエルを全面的に支持していたが、彼の要求は飲まなかった。その代り序列が第四位の民主党幹部会議長の席を彼に準備した。2007年のことである。下院議員になってわずか5年で彼は党内に確固たる地位を築いたのである。

政策を実現するには敵が必要

エマニュエルの成功の秘訣は、伝説的ともいえる激しさにある。彼のニックネームは「ランボー(Rahmbo)」という。これは映画「ランボー(Rambo)」と彼の名前のスペル(Rahm)を重ねたものである。彼の激しい気性を示すエピソードには事欠かない。

映画の主人公と同じように激しい性格を持っているということから名づけられたものだ。リトルロックでのクリントン選挙チームへの自己紹介は有名であるが、選挙が終わった後の会食の席でステーキナイフを振りかざし、選挙での裏切り者の名前のリストを読み上げ、「やつらに死を」と叫んだという。その場面の目撃者は、まるで映画「ゴッドファーザー」の一場面のようだったと証言している。選挙中に彼を怒らせた元同僚に死にかけた大きな魚を送り付けたというエピソードも残っている。そうした激しい気性について新聞のインタビューで「朝目覚めると自己嫌悪に陥ることがある」と語り、「それでも変えることができない」と告白している。
容赦なく相手を攻撃するため、多くの敵を作っている。

新聞のインタビューで「目的を迅速に達成するためには敵を作るのは避けられない」と語っている。その激しさから多くの敵を作ったが、同時に多くの味方も持っている。共和党の有力議員と友好的な関係を作り上げ、議会での影響力を強めている。また時には情報をリークし過ぎるとの批判を浴びているが、メディアと関係も良好で、様々な情報ルートを持っていると言われる。ホワイトハウス時代に培ったネットワークをフルに活用し、議会の力関係も熟知しており、そうしたことをベースに下院議員として実力を発揮してきたといえる。

エマニュエルを敵視する者からすれば首席補佐官指名はオバマ次期大統領の共和党との対決姿勢を示すものだと批判している。共和党のジョン・ボーナー院内総務は「オバマ次期大統領はワシントンを変え、中道派の立場から政治をすると主張していたが、エマニュエルの首席補佐官指名は公約を破るものだ」というコメントを発表している。オバマ次期大統領もそうした批判は知っており、「ラームは大きく成長した」と擁護している。エマニュエルのもまた記者会見で「私たちと共和党はしばしば意見が対立するが、私は彼らの考え方を尊重している」と、超党派による改革の必要性を訴えている。

思想は中道右派の立場にある

クリントン元大統領は自らを“ニューデモクラッツ”と称し、財政赤字削減など中道右派の政策を掲げて大統領に当選した。エマニュエルの政治的立場もニューデモクラッツである。クリントン政権で首席補佐官を務めたレオン・パネッタは「エマニュエルは基本的に中道派である」と語っている。民主党内で最も保守的であるとの評価もある。もっといえば徹底した政治的プラグマチストである。彼自身も「中道派か左派化という議論は愚かな議論だ。そうした議論は時代遅れで、今は“変化”か“現状維持”かが問題である」と語っている。
首席補佐官の要件は大統領の信任があること、社会的知名度があること、ワシントンの政治を熟知していることだと言われる。エマニュエルは、その条件をすべてクリアしている。さらに政治家としての実績も残している。オバマ次期大統領は2006年の中間選挙の勝利の後、「エマニュエルは偉大なる戦略家である」と語っている。

最初の疑問の「なぜエマニュエルか」に対する答えは明白である。二つ目の「なぜ彼が受諾したのか」はまだ疑問が残る。ただ彼は2008年3月19日の『ウォール・ストリート。ジャーナル』に「新しい経済のためのニューディール」と題する記事を寄稿している。その中で政府は国民との間に“新しい社会契約”を結ぶべきだと主張している。オマバ次期大統領と一緒にアメリカを変えることは、エマニュエルにとって刺激的な挑戦であるのは間違いない。

この投稿には、まだコメントが付いていません »

このコメントのRSS
この投稿へのトラックバック URI
http://www.redcruise.com/nakaoka/wp-trackback.php?p=275

コメントはお気軽にどうぞ