中岡望の目からウロコのアメリカ

2009/7/27 月曜日

日本を変えるために何が必要か:活路を開くには文部科学省の廃止しかない

Filed under: - nakaoka @ 16:39

最近、一体何が問題なのだろうかと考えることがあります。日本の将来に対してどうしようもない閉塞感を感じます。そしてひとつの結論に達しました。それは”想像力”の欠如ではないかと。社会全体も想像力をうしないつつありますが、何よりも官僚と呼ばれる人々の想像力の欠如が、日本社会の最大の問題ではないかと思うようになりました。個々の官僚には優れた人もいるのでしょうが、官僚機構という枠組みに入ってしまったら、個々の感性と想像力は圧殺されるのでしょう。今回、ある雑誌に「日本に一揆を起こすような過激な提案をしてください」と依頼され、日本の最大の問題は文部科学省にあるという原稿を書きました。大いに異論反論があると思いますが、これは私の長年の持論でもあり、寄稿しました。

日本は“小役人”国家である。明治以来続く官僚主義のもとに形式主義と誰も責任を取らない無責任体制がはびこってきた。さらに前例主義が日本社会のダイナミズムを損なってきた。それが現在の日本の閉塞感の大きな原因になっていることは間違いない。そうした官僚主義は官僚社会のみならず一般企業にも蔓延しつつある。こうした悪しき官僚主義を打破しない限り、新しい展望は開けてこないだろう。日本が大きく飛躍したときは、明治維新や第二次世界大戦での敗北で既得権構造が破壊され、新しいエネルギーが噴出してきたときだ。戦後のパージによって旧勢力は放逐され、若い世代が指導的な立場に就き、戦後の経済発展の原動力となってきた。戦後の成功体験は日本人のメンタリティに大きな影響を与え、自己改革の芽を摘んできた。

そうした官僚制度の中で各省はそれぞれ問題を抱えているが、筆者が最大の問題と考えるのは文部科学省であり、教育行政である。日本の教育制度は荒廃の極みに達している。日本が本当に変わるためには、文部科学省の廃止が不可欠である。

かつて初等中等教育は世界に誇れるものであったが、現在の公教育は無残な姿をさらしている。大学教育など高等教育はさらに悲惨な状況にある。世界の大学ランキングで東京大学は一九位に過ぎない。上位一〇〇にわずか三行しか入っていない(QC調べ)。筆者はアメリカの大学で教えた経験もあり、現在日本の大学でも教えているが、日本の大学教育のレベルは自慢できるものではないと実感している。

文科省の場当たり的な教育行政が日本の教育をだめにしてきたのは明らかである。また過剰ともいえるイデオロギー性も、自由闊達な教育現場を委縮させてきた。思いつきの“教育改革”を行う都度に教育現場は混乱し、教育の内容は劣化してきた。たとえば“ゆとり教育”がいかに初等中等教育に悪影響を与えたことか。また英語教育の必要性を訴え、小学校で英語教育を導入する一方、中学校では英語教育の時間は削減されている。多くの生徒は十分な英語教育を受けることができず、基本的な構造すら理解できないままに高校、大学へと進学してきている。

こうした問題の背景には文科省と教育委員会の歪な関係がある。教育委員会は文科省の下請けに過ぎず、また教員の出世コースと化している。文科省に劣らぬ教育委員会の形式主義と保守性によって教育現場の自発性は失われている。かつて教育委員会のメンバーは公選制で住民の選挙によって選ばれてきた。現在は知事による指名制で、住民のチェックが効かない仕組みになっている。もちろん公選制が絶対に良いというわけではないが、少なくとも親が教育に対して意見を言える機会を持てる意味では、現在の仕組みよりも遥かに優れているのは間違いない。

文科省の教科書検定も大きな問題を含んでいる。戦後、実に多種多様な教科書が出版された。教師はその中から一番自分たちにあった教科書を主体的に選ぶことができた。英語の教科書も何十種類もあった。だが検定の結果、次第に教科書の数は減り、教師による選択の余地はなくなった。さらに検定に際してのイデオロギー過剰の問題もある。プラス、マイナスを考えれば、現在の検定制度はマイナスのほうが大きいといえよう。さらに検定過程の透明性も不十分である。国民は文科省の検定担当官に白紙委任状を渡しているわけではない。教科書の検定問題は閉鎖的な官僚システムの中で扱われるべきではない。

さらに大学教育の問題がある。大学の独立法人化で大学教育の現場は疲弊し切っている。もちろん、従来の大学にはあまりにも大きな無駄があったことは事実である。しかし、短期的な成果主義は教育には決して好ましいものではない。文科省は財源をコントロールすることで直接、間接に大学を支配している。どの大学にどれだけの資金を配分するかの決定権は文科省にある。だが、アメリカでは政府というチャネルを通さずに大学に巨額の資金が流れ込んでいる。

それは寄付である。卒業生の寄付もあれば、教育や研究を支援するための企業の寄付もある。それを可能にしているのは税制である。国民はできることなら自分たちの判断で、母校や優れた業績をあげている大学に寄付したいと思っている。そうした資金のチャネルが保障されれば、大学は文科省の認可を得るなど煩雑な手続きを経ることなく主体的な教育プログラムを組むことができるようになるだろう。

さらに大学にも大きな問題がある。多くの大学は非常勤講師に大きく依存している。おそらく多くの大学では常勤のスタッフよりも非常勤スタッフの数の方が多いのではないだろうか。非常勤講師は授業外で学生を指導する時間はなく、しかも信じられないほどの低賃金である。筆者がアメリカの大学で教えたとき、1コース当たりの講師料は二コマの授業で六〇〇〇㌦であった(当時の為替相場で約六〇万円)。おそらく日本では同じ条件で四〇万円にも満たないだろう。こうした状況で世界の著名大学に対抗できるような質の高い教育を行えるはずはない。

アメリカの大学の学長の大きな仕事は寄付集めであり、潤沢な大学基金を背景に多くの学生に奨学金を提供している。筆者が取材に訪れた大学では三分の二以上の学生がなんらかの奨学金を得ていた。大学の授業料は四万~五万㌦と高いが、優れた奨学金制度によって優秀な学生にも教育の機会を与えている。日本と違い奨学金は貸与ではなく、贈与であり、学生の負担は小さい。

自由で創造的な子供を育てるには、自由で創造的な教師と教育制度が必要である。だが文科省は明治維新以来の硬直的な“臣民教育”のメンタリティが抜けきっていないようだ。もし文科省を廃止し、税制改革で学校への寄付を促進させ、学校の自由度を高めれば、日本の教育は飛躍的に変わっていくだろう。

1件のコメント »

  1. 今現在、地方美術館との交渉に悪戦苦闘しています。
    そこここに小役人ははびこっているようです。

    コメント by satoco gracia — 2009年7月28日 @ 13:52

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