中岡望の目からウロコのアメリカ

2009/11/9 月曜日

米国民皆保険制度は実現するのか:下院で法案可決、だが上院では難航

Filed under: - nakaoka @ 12:26

オバマ政権の大きな選挙公約のひとつである「医療保険制度改革法案(Affordable Health Care for American Act)」が11月7日に下院で可決されました。下院では、パブリック・オプションという国営の保険制度設立と保険対象に中絶を含めるかどうかが大きな論点になりました。法案は220対215と僅差で可決されました。民主党から39議員が反対票を投じています。共和党議員は1人が賛成して、他の共和党議員は反対票を投じています。上院での審議はさらに厳しいものになると予想されます。現在、民主党は60議席、共和党は40議席を確保しています。しかし、下院の例を見るまでもなく、民主党の中にも反対議員が多く、共和党からの支持を期待できないのが実情です。民主党政権念願の医療保険制度改革が実現するかどうか、まだ予断をゆるしません。ここに掲載した記事は10月下旬に『週刊エコノミスト』に寄稿したものです。

アメリカの医療保険の現実は過酷である。皆保険制度のないアメリカでは、貧富の差が直接受けることのできる医療サービスの差となって現れる。高額な保険料を支払うことのできる富裕層は、最高の医療サービスを受けることができるが、保険料が少ないと高度医療は言うまでもなく、医療サービスの範囲は限定され、医者を選ぶことさえできない。また医療保険に加入できる人は幸せかもしれない。

米国勢調査局の調査では、2008年に無保険加入者の数は4630万人に達している。金融危機の影響もあり、前年よりも60万人も増えている。特に無保険者は少数民族に集中している。ヒスパニック系アメリカ人の約32%、ネイティブ・アメリカンが約28%、アフリカ系アメリカ人の約21%が無保険者である。白人は約13%と相対的には低いが、その絶対するは大きい(カイザー・ファミリー基金調査)。

また高齢者を対象とする政府の医療保険制度であるメディケアや貧困層を対象とするメディケイドの支援を受けている人の数は8740万人と非常に多く、政府の財政を圧迫している。医療保険には加入しているが、多くの保険料が支払われないために十分な医療サービスを受けることが出来ないアンダーインシュアードと言われる人は、成人の42%に達している(コモンウェルス・ファンドの2008年6月調査)。

こうした状況を改革し、国民皆保険制度を作ろうとする試みは何度か行われてきたが、いずれも失敗に終わっている。1912年の大統領選挙にセオドーア・ルーズベルト大統領は進歩党から立候補しているが、同党の政策綱領の中に国民皆保険制度である「単一国家医療サービスの提供」が盛り込まれている。また1933年に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトもニューディール政策の一貫として国民皆保険制度の導入を検討したが、最終的に断念している。リベラル運動がピークに達した1965年に成立した社会保険法によってメディケイド、メディケアの両制度が導入されたが、国民皆保険制度の樹立には至らなかった。

1993年に成立したビル・クリントン政権は、選挙公約に政権発足後100日以内に医療保険改革を実施することを掲げていた。設立直後に将ホースが設置され、ファースト・レディのヒラリー・クリントンが責任者となり法案作成が進められた。当時、民主党は両院の過半数を占めていたが、法案作成過程での秘密主義と1342ページに及ぶ膨大な法案と複雑でテクニカルな内容で国民の十分な支持を得ることなく、共和党と保険業界の反対で無残な失敗に終わった。

オバマ大統領の戦略

オバマ大統領も選挙公約に医療保険制度の改革を掲げていた。オバマ政権の医療保険制度改革は、クリントン政権の過ちを繰り返さないという問題意識から始まった。オバマ大統領は3月13日に保険業界も含めた関連業界の代表などをホワイトハウスに集めて医療保険制度サミットを開催し、意見を聞くなど極めてオープンな形で医療保険改革に取り組んだ。クリントン政権の時と違い、関係者の間では現行制度はいずれ行き詰まり、なんらかの改革が必要だという合意が見られた。議会も民主党が両院で過半数を占め、改革の機運は高まった。

オバマ大統領の提案を受け、議会で医療保険改革の審議が始まった。まず7月14日に下院案が提出され、歳入委員会、エネルギー・商業委員会など3つの委員会で修正、可決された。上院案は9月16日に提案され、まず健康教育労働年金(HELP)委員会で可決された。そして10月14日に財政委員会で可決された。同修正案は財政委員会のマックス・ボーカス委員長が共和党と民主党の妥協を図るために作成したことから、ボーカス案とも呼ばれている。下院の3委員会と上院のHELP委員会では共和党委員はすべて反対したのに対して、財政委員会では共和党のオリンピア・スノー上院議員が賛成票を投じ、14対9で可決された。

オバマ大統領は政治的分極化を克服し、超党派で政策を実現すると主張していた。しかし、議会では景気刺激策を含め重要法案では民主党と共和党はことごとく対立していた。ボーカス案が可決されると、オバマ大統領は演説の中でわざわざ「医療保険改革は両党の支持を得た」と語り、「私たちはかつてなく改革の実現に近づいた」と改革案成立に強い期待を表明した。

現在、議会では下院の3委員会案と上院のHELP委員会案、財政委員会の3つの案が存在している。通常の手続きでは、下院では3委員会案が本会議で審議、採決されることになる。上院案は本会議でボーカス案とHELP委員会案の2法案の一本化が行われ、採決されることになる。両院で可決されれば、両院協議会で下院案と上院案の刷る合わせが行われ、再度両院で可決されて、ホワイトハウスに送付されることになる。オバマ大統領がそれに署名すると、医療保険制度改革は実現することになる。オバマ大統領は、年内に成立することを期待している。

共和党上院は議事妨害で阻止へ

だが、現実はそう簡単ではない。3つの法案の中で最終的な案になると予想されるのはボーカス案である。同案は共和党の支持を得るために修正が加えられ、3つの中で最も保守的な内容になっている。だが共和党議員で賛成に回ったのはスノー議員一人で、他の共和党議員は反対の立場を崩さなかった。上院共和党のジョン・カイル院内幹事は「同法は国民にとって良い物でなければならないが、そうではない」と本会議での修正を目指すと公言している。

院の議席数は民主党が60議席、共和党が40議席である。スノー議員が賛成票を投じれば、61対49で問題なく可決される。だが、スノー議員は財政委員会での採決直後に「今日賛成したからといって、明日も賛成するとは限らない」と、本会議での審議次第では反対票を投じる可能性があると示唆している。

また共和党だけでなく、民主党のリベラル派のベリー・サンダース議員は「ボーカス案は極めて弱い」と批判を強めている。ジョン・ロックフェラー議員もボーカス案に満足しているわけではないと不満を述べている。そうしたリベラル派議員が採決で反対に回る可能性も否定できない。特に民主党リベラル派の支持団体であるAFL・CIO(米労働総同盟細別会議)もボーカス案を労働者の利益に反すると反対の立場を明らかにしており、その影響も無視できないだろう。また上院の一部の民主党議員は共和党の支持が得られなければ反対に回ると主張しており、上院本会議での審議の見通しは極めて不透明である。

もし民主党が60票を確保できなければ、共和党は議事妨害(フィルバスター)で法案の採決を阻止する構えである。60票は審議打ち切り、採決動議を成立させる最低必要数である。すなわち議事妨害を回避するには絶対60票必要なのである。スノー議員が反対に転じ、民主党議員のなかから一人でも脱落者が出れば、共和党は医療保険改革法案の成立を阻止することができる。上院の本会議は10月26日から開催される予定であり、審議次第で事態は大きく変わる可能性もある。下院で議事妨害を行えないので、3委員会案が原案の通りで可決されることになるだろう。

3法案の違いは何か

では共和党は何を問題としているのだろうか。3法案を比較してみると、次のようになる。10年間の経費増は、下院の3委員会案が1兆㌦強、HELP委員会案が5450億㌦、ボーカス案が8290億㌦と、それぞれ巨額になると推定されている。共和党の最大の反対理由は、その巨額の経費を賄うために新税が導入される可能性があることだ。3案とも国民の強制的な医療保険加入、企業の従業員への医療保険提供か従業員の保険加入費の一部負担の義務化、低所得者への保険加入の補助金の提供、メディケイドの適用範囲の拡大が盛り込まれている。

3案で最も異なるのは、3委員会案とHELP委員会案には民間の保険会社との競争を促進するための政府が直接保険を提供する条項(パブリック・オプション条項)が盛り込まれているのに対して、ボーカス案では非営利団体を設立し、政府が60億㌦拠出することになっている。リベラル派議員やAFL・CIOがボーカス案に反対する理由はそこにある。共和党はパブリック・オプション案は新たに政府管掌保険を設立することになり、政府の権限を強化することになると反対している。

費用増に関しては議会予算局がボーカス案に基づいて試算を行っている。それによると、経費増はメディケイド拡大で3450億㌦、低所得者補助で4610億㌦などで、これに対してメディケアの支出削減4000億㌦、高額医療保険への課税と手数料の引き上げで3800億㌦以上の収入が確保できるので、最終的な財政負担は当初の見込みよりも10年間で810億㌦減るとする試算結果をボーカス財政委員会委員長に10月7日に提供している。これに対して共和党は議会予算局の試算は経費を意図的に操作していると批判している。

議会予算局の試算で興味深いのは、ボーカス案が成立すれば、10年間で2900万人に保険が適用されるようになると試算する一方で、2019年の時点でも2500万人の無保険者が存在するとしていることだ。国民皆保険を目指す医療保険制度改革であるにも拘わらず、改革が実施されても2000万人を超える無保険者が残るのである。

高まる反対派の動き

オバマ大統領が最終的にどのような判断を下すのか予測できないが、年内成立を実現するためには、相当な政治的交渉が必要となるだろう。しかし、情勢は楽観できない。9月に入って民主党主導の医療保険改革に反対する動きが顕著になっている。増税と大きな政府阻止をスローガンとするティー・パーティ運動と呼ばれる保守派の市民運動の動きが活発化している。彼らはオバマ大統領など民主党幹部の改革推進を進めるタウン・ミーティングに乱入して気勢を上げるなど過激な運動を展開している。両院での本会議での審議が本格化すれば、さらに運動を過激化すると予想される。

また保険業界も医療保険改革に反対の立場を表明している。アメリカズ・ヘルス・インシュランス・プランと呼ばれる業界団体は巨額の資金を投じて改革反対のテレビコマーシャルと流している。この6ヶ月間にロビー活動のために約1・2億㌦を使っている(センター・フォー・リスポンシブ・ポリティック調べ)。会計会社プライスウフォーターハウスクーパーを使って議会予算局の試算を批判する報告書を堕させるなど激しい反対運動を行っており、ホワイトハウスのダン・ファイファー副報道官は「保険業界は医療改革への攻撃を始めることを決めた。彼らの動機は明らかだ。それは利益だ」と、批判を加えている。

これに対して同プランは、メディケア予算の削減は高齢者へ医療保険改革のしわ寄せをするものだと、単に保険業界の利益のためだけではないと反論している。ワシントン・ポスト紙(10月14日付け)は、「保険業界とホワイトハウスは全面戦争に突入した」と書いている。

反対の動きは、保守派や保険業界に留まるものではない。既に述べたように民主党の強力な支持団体であるAFL・CIOも、ボーカス案に反対のキャンペーンを展開している。
では、国民の反応はどうなのだろうか。民間の世論調査会社ラスムーセンは継続的に医療保険制度改革に関する調査を行っている。10月10日と11日に行った調査では、改革反対が50%、賛成が44%となっている。強烈に反対が39%、強烈に賛成が23%である。9月12日に行った調査では賛成が51%、反対が46%だったが、その後、賛成は減り、反対が増えている。6月以降の調査を見ると、大半の調査では反対派が賛成派を上回っている。

多くの国民にとって、医療保険は個人の責任で行うものだという意識が極めて強い。医療保険改革がオバマ大統領の支持率低下の大きな要因にもなっている。超党派で医療保険制度を改革するというオバマ大統領の願望は確実に潰えている。今回が医療保険制度改革の最後のチャンスかもしれないが、まだまだ楽観を許す状況ではない。

1件のコメント »

  1. やはり楽観を許す状況ではないんですね。

    コメント by 松浦 — 2009年11月12日 @ 23:07

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