中岡望の目からウロコのアメリカ

2005/1/5 水曜日

2005年の抱負:日本にも必要な Alternative Journalism

Filed under: - nakaoka @ 19:24

今年初めての原稿です。元旦に1本、書きたいと思っていたのですが、時間が取れませんでした。今、雑誌の原稿執筆の準備に時間を使っています。予定では、2月発売の「中央公論」に掲載されるはずです。出版されたら、また詳しく報告します。今日の11時よりTBS放送の番組に短時間ですが、インタビューされて登場しています。以前、アメリカのテレビ局PBSに1時間インタビューされ、使われたのが一言でしたが、今回もほぼ1時間のインタビューを私の書斎で行なったのですが、数十秒くらいは使われるでしょう。さて、今回は初回でもあり、”ジャーナリストの志”について書きます。

高校生の頃、尊敬し、著書をよく読んでいたジャーナリストに「むのたけじ」がいます。彼は、朝日新聞の記者でしたが、戦争中の新聞報道のあり方に疑問を抱き、1045年8月15日に朝日新聞を辞め、秋田県横手市に戻り、「たいまつ」という小さな週刊新聞を始めます。10代の頃、私は特にジャーナリスを志向していたわけではありませんでしたが、彼の生き方の共感を覚えていました。大きな組織の属さず、ジャーナリストとして生きた彼の姿勢は、いまでも鮮明に記憶に残っています。時期は忘れましたが、彼がテレビに出て話している姿を見たことがあります。温厚で、優しい話し振りも、強く印象に残っています。そこには正義をかざす傲慢な姿勢は、微塵も感じられませんでした。

彼の姿勢は、常に”反権力”でした。それは、ジャーナリズムは常により強いものに対する批判者としてあるべきだという考えに基づいていたのではないかと思います。ジャーナリズムが権力に迎合したとき、それはより大きな使命を失うことになるのでしょう。メディアの経営者やジャーナリストは、政府の諮問会議などのメンバーになっては駄目なのでしょう。が、それがあたかも自分の出世であり、自分の能力を評価されたと錯覚するジャーナリストも少なくないのが現実です。

もう一人、忘れられない人がいます。天谷(あまや)直弘元通産次官です。私は1982年にハーバード大学から帰って、東洋経済に復職しました。同大学のケネディ政治大学院に所属したのですが、その時取ったクラスに「比較産業政策論」(正確な名称は忘れましたが)がありました。そのクラスは、エズラ・ボーゲル教授とクリントン政権の労働長官を務めたロバート・ライシュ教授の共同授業でした。そのクラスで教科書として使われた本がありました。ライシュ教授と、クリントン政権でヒラリー・クリントンと一緒に医療制度改革に取り組んだマガジンナとの共著「Minding America’s Business」という本で、70年代から80年代初のアメリカ経済の没落を冷静に分析したものです。当時のアメリカ経済は、”一人勝ち”といわれる今の状況とは比較できないほど衰退していまいた。素晴らしい本でした。帰国してから本の翻訳を思い立ち、東洋経済から出版することになり、一緒に同じクラスを取っていた塩崎泰久衆議院議員と永岡洋治衆議院議員の3人で共訳をすることになりました。

その本は「アメリカの挑戦」というタイトルで出版されました。本の「前書き」を書いて戴いたのが、天谷さんでした。非常に丁寧な文章でした。本が出版された後、私たち訳者3人は天谷さんに鰻屋に招待され、ご馳走になりました。その時、彼は既に役所を辞め、通産省系の研究所の所長をしておられました。天谷さんはガンで亡くなられました。当時、彼が主張していたことは「町人国家論」というものでした。日本は「町人国家」でなければならない。他の国に土足であがりこむような「政治国家」「軍事国家」になってはならないという主張でした。もし彼が生きていたら、今の日本の状況をどう思われるのでしょうか。おそらく、悔しがっているのではないかと思います。「町人国家論」は、私が勤務した東洋経済の社長で、戦後、総理大臣になった石橋湛山(たんざん)の「小日本論」にも通じるものです。こうした考えは、「普通の国家論」といった威勢の良い議論とは基本的に違うものです。

その天谷さんとむのたけじのイメージは、私の中でオーバーラップします。二人とも、実に穏やかな口調で話をされる方でした。ジャーナリストと高級官僚という違いはありましたが、人間的に共通する”匂い”を感じました。当時、通産官僚は自信過剰な人物が多かったように思います。が、天谷さんには、役人特有の慇懃無礼なところはまったくありませんでした。鰻を食べながら、日米通商交渉の裏話などをお聞きしたのを覚えています。こんなエピソードを話していただけました。日米自動車交渉を行なったとき、輸出台数の制限の具体的な数が焦点になりました。だが、アメリカの弁護士が同席し、もし交渉担当者が日本からの具体的な輸入台数について談合すれば、反トラスト法違反になるかもしれないという問題が出てきたそうです。そこで、天谷さんはアメリカ側の交渉担当者と一緒に「用足しに行く」といって席をはずし、トイレで阿吽の呼吸で制限台数をそれとなく話しあったそうです。こうした日米交渉も遠い昔話となりました。経済摩擦を議論する世界は、軍事協力を議論する世界より、はるかに牧歌的だったようです。

最近のジャーナリズムや論壇の状況を見ていると、勇ましい議論や声高な議論が勢いを得ているようです。日本の社会は、不思議なことに”声が大きい人”が勝つ社会だという感じがします。相手の意見を聞かず、自分の意見を声高に主張し、相手を威圧することが、あたかも優れた議論の仕方であり、自分を誇張する手法になっているようです。企業社会にも同じような状況が見られます。冷静に議論を積み重ね、共通する場所を捜し求め、優れた妥協点を見出すという知的努力が軽んぜられているようです。国会の議論などは、その典型的な例かもしれません。「政治はあるが、政策がない」のが、今の日本の政治状況のような気がします。

もう1つ感じることがあります。それはジャーナリズムの役割です。このブログを昨年の10月に始めました。仕事の合間に調べたことを「備忘録」のように書き綴ってきました。大手のメディアが報道しないような小さいが、それでも重要な事柄を取り上げてきました。アメリカのジャーナリズムの状況を見ていると、大手メディアに対抗する「Alternative Journalism」 あるいは「Alternative Media」が大きな影響力を発揮しつつあることを知りました。アメリカでは、ブログも重要な表現手段、ジャーナリズムの手段になっています。大手のメディアも、ブログの影響を無視できなくなりつつあります(ちなみにブログを通して情報発信している人は”ブロガー”と呼ばれています)。たとえば、大統領選挙の公開討論があったあと、「ニューヨーク・タイムズ」や「ウォール・ストリート・ジャーナル」などの大手新聞も、ブログがどのような評価をしているかを報道していました。大統領選挙とブログの関係は、本ブログの中でも取り上げています(「大統領選挙は情報戦争」という項目をご覧ください)。

一人のジャーナリストでも、大手メディアと対抗しうる手段を持つことができるようになったのです。むのたけじが横手で出していた週刊新聞「たいまつ」は、おそらくわずかな読者しか獲得できなかったではないでしょうか。しかし、情報化時代の現在、個人のジャーナリストが自らの表現手段を獲得することができるようになったのです。

日本では、まだブログがジャーナリズムとしての地位を確立するには至っていないようです。もともとフリーのジャーナリストが少ない社会なので、書き手の数が限られているのでしょう。しかし、遠からず、ブログという表現を獲得したジャーナリストは、独自の立場で情報と分析を提供するようになると思っています。ブログは同時にフォーラムでもあります。その双方向性は大手メディアよりも優れた場所を提供するようになるでしょう。ただ、アメリカにも気になる動きがあります。セントルイスの有力紙「セントルイス・ディスパッチ」紙は、ブログに執筆したことを理由に一人の記者を停職処分にしています。大手メディアに所属していては表現できないこと、報道できないことがあります。しかし、企業に属す限り、様々な制約がかかってくることは避けられないのでしょう。

このブログには、1日に2000件以上のヒットがあります。1月5日には3000件を越えるヒットがありました。もちろんヒットした数だけ記事が読まれているわけではありませんが、記事が累積するにつれて、確実に読まれている件数も増えてきています。

日本にも良質な「Alternative Journaoism」あるいは「Alternative Media」が育つべき時期がくるでしょう。今までもアンダーグラント的な反メディアは存在しました。例えば廃刊になりましたが「噂の真相」も、そうした種類のメディアであり、それなりの役割を果たしてきたと思います。ジャーナリストも食べていかなければなりません。したがって、収入にならないブログに全力投入はできません。それでも、真摯なジャーナリストにとってブログは自分の発言の場所としては極めて有効な場であることは間違いありません。

日本でもアメリカの「Alternative Journalism」あるいは「Alternative Media」に匹敵するジャーナリズムが誕生することを願っています。本ブログが、その一翼を担うようになるというのが、今年の抱負です。

もう1つ、今年の目標は、英語のブログを開設することです。本ブログはアメリカの情報を日本に伝えることを目的としていますが、英語のブログで日本の状況を海外に発信する必要性も感じています。実は、私は1989年から1992年まで東洋経済の英語月刊誌「Tokyo Business Today」の編集長をしていました。当時から、世界第2の経済国でありながら日本には世界に通用する英語のメディアがないことに不満を覚えていました。常に翻訳でしか海外に情報を伝えられないというのは、決して健全な状況ではありません。「公式的見解」とは違った情報を、日本人のジャーナリストが海外に伝えることができれば一番良いと思っています。そんなことを夢見ながら、年初の抱負としたいと思います。

5件のコメント

  1. 中岡さん、読ませていただきました。最初は共感、そして感動にと思いは変わりました。ジャーナリズムの役目、日本のジャーナリズムの状況、個人で情報発信をすること、英語メディアの必要性・・・。私がブログを始めたのは、自分が取材で得た情報を特定の媒体のみに出すこと、一部だけ出すことをやめたいと思ったことが一因でした。お金をどうやって稼ぐかが大問題ではありますが、これからも惜しみなく、出して生きたいと思っています。また遊びにきます。

    コメント by 小林恭子 — 2005年1月6日 @ 07:32

  2. かくて誰もが
    Aさんは、最も身近で最も詳しい筈の自分の歩みには触れないで社会を語ります。B評論

    トラックバック by 梟の森 — 2005年6月9日 @ 08:48

  3. 敗戦の日に朝日新聞を辞めた男 むのたけじ
    むかし、むかしの話じゃ。浅卑新聞にも気骨ある男がいたんじゃな。 その名は、むのたけじ。

    トラックバック by 反米嫌日戦線 LIVE and LET DIE(美は乱調にあり) — 2005年7月17日 @ 00:33

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    トラックバック by this is very good — 2006年11月17日 @ 09:42

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    トラックバック by this is very good — 2006年11月17日 @ 09:57

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