中岡望の目からウロコのアメリカ

2005/1/24 月曜日

メル・ギブソンは反ユダヤ主義者か:アカデミー賞受賞候補作品発表直前に

Filed under: - nakaoka @ 16:09

前回のブログを書いて時間が経ってしまいました。書いた直後に大学の授業があり、「中央公論」の原稿の締め切りがあり、さらに縁者の結婚式と親しい友人たちの飲み会がありと、時間が取れませんでした。もう1つの理由があります。実は書きたいテーマが3つあり、その中の一番面倒なテーマを書くことにしたため、正直、かなりてこずりました。実は本ブログの前の記事に「メル・ギブソンとマイケル・ムーア」というのがあります。大統領選挙の年に対極的な映画が作られ、アメリカで2つとも多いに議論を呼んだこともあり、取り上げました。数日前、そのブログに1つのコメントがつきました。「Passion=キリストの受難、罪を背負うイエスを通して訴える反戦」という短いコメントでした。このコメントにどう答えるべきか考えていました。そうしたこともあり、新しいブログがなかなか書けませんでした。が、25日にアカデミー賞の候補作品が発表されることもあり、「メル・ギブソン再論」を思い切って書くことにしました(25日に発表されたノミネーションでは「パッション」は映像技術、音楽、メイクアップの3部門でアカデミー賞にノミネートされました。「華氏911」のノミネーションはありませんでした)。

もう昔の話ですが、あるアメリカ大使館勤務のアメリカ人の友人と話をしていたら、急に彼は「日本人はユダヤ人問題に無神経だね」と言い始めました。当時、「ユダヤ人の陰謀」といった類の本がベストセラーになっていました。今でもその類の本は相次いで出版されています。彼が「こうした現象を見ると、国際的に日本人はアンタイ・セミティズム(Anti-Semitism=反ユダヤ主義者)だと見られてしまうかもしれない」と語った言葉を今でもはっきり覚えています。その頃、某有名月刊誌が「ホロコスト(ユダヤ人大虐殺)は虚構だ」という特集を組み、ユダヤ人協会から抗議を受け、その雑誌の編集長が辞任するという事件もありましたが、日本人の「ユダヤ人問題」に対する理解はあまり深いとはいえないようです。今でも、世界の金融市場はユダヤ人が牛耳っているなどと平気で言う人がいます。これなどまったく根拠のない話です。大半の日本人は生涯で一度もユダヤ人に出会う人はいないし、欧米社会での彼らに対する”差別”の実態を知らないのですから、仕方がないのかもしれません。

メル・ギブソンの「パッション」(英語のタイトルは「The Passion of Christ(キリストの情熱)」です)は、欧米社会のユダヤ人問題を知らないと理解できない面もあるようです。さらに、不幸だったのは、この映画がアメリカで”政治化(politicized)”され、思わぬ方向にも波及したことです。「パッション」を巡る議論は、アメリカの保守化の中で保守主義者とリベラルの対立のような様相さえ示しました。

「パッション」を映画としてどう評価するかは難しいところです。ただ、コメントにあったようにメル・ギブソンがこの映画を「反戦映画」として作っていないのは明確です。おそらく彼の心の中にあるのは、「精神性が肉体性を超越し、肉体が滅びることによってより高次の精神性を獲得できる」というメッセージではないかと思います。私が好きな映画「ブレーブハート」も、拷問で死ぬシーンで終ります。それは拷問にあい、十字架に掛けられて死ぬキリストのイメージとオーバーラップします。映画の評価はアカデミー賞に任せましょう。アメリカ時間の25日に各賞の候補作品が発表になり、2月27日に受賞作が決定します。ただ、今の段階では「パッション」は、どのカテゴリーでも候補作には上がっていないようです。ちなみに、最優秀作品候補は「ネバーランド」「ホテル・ルワンダ」「サイドウエイ」「レイ」などがあがっています。「パッション」の話はあまり出ていませんが、「華氏911」は可能性があるというコメントもあります。いずれにせよ、数日後には、候補作は明らかになるでしょう。

「パッション」の映画としての評価はさておき、なぜこの映画が問題になったのかです。それは、映画の内容に反ユダヤ主義を喚起させる部分があるからです。また、作品が出来上がる前から、その脚本の内容が問題になりました。メル・ギブソンは、映画製作の資金を出すだけでなく、この映画の脚本の共同執筆者でもあります。リベラル派の聖書研究者が映画の脚本を事前に入手し、その反ユダヤ的な内容を批判し、修正を求める行動を起こしたのです。「合衆国カトリック司祭会議(United States Conference of Catholic Bishop)」のメンバーが、メル・ギブソンと製作会社アイコン・プロダクションに反ユダヤ的な内容である抗議しました。要するに、脚本には福音書の解釈に問題があり、反ユダヤ主義を煽る内容であると批判したのです。両者の間で交渉が行なわれましたが、最終的にメル・ギブソン側は脚本を手直ししないまま映画を製作します。ただ、”血に飢えたユダヤ人”の群集が「His blood be on us and on our childreen」と叫ぶシーンでは、この言葉は英訳されませんでした(映画では英語は使われていません)。ユダヤ人が扇動してイエスの処刑を求めたとする解釈が、ユダヤ人に対する嫌悪と差別の原因になっているといわれています。またイエスに死刑の判決を下したユダヤ人のカヤバが登場する場面も削除されたと言われています。「自分は歴史に忠実に作った」「御霊が私を通して映画に現れた」と、その立場を譲らなかったメル・ギブソンも、さすがにこの部分のセンセーショナルな内容は気になったのかもしれません。

福音書に関する解釈は様々あります。メル・ギブソンが映画の原作としたのはSister Anne Catherine Emmerich(1774年~1824年)の本で、彼女は必ずしも聖書解釈の専門家ではありませんし、その本は反ユダヤ的であり、かつ極めて暴力的だといわれています。映画は忠実にイエスの時代を描こうとしていますが、イエスの解釈、ユダヤの解釈は、必ずしも当時の状況を表現しているわけではないようです。映画の内容は、「新約聖書」から大きく逸脱しているというのが専門家の共通した意見です。これはあくまでメル・ギブソンの宗教的立場(伝統主義者カトリック教徒)からの解釈であると言われています。そのため、著名な聖書学者は「バチカンはちゃんとしたユダヤ人解釈を出すべきだ」と主張しています。すなわち、ユダヤ人がイエスの処刑を煽ったという解釈は正しくないと正式な見解を出すべきだということです。しかし、アメリカのエバンジェリカル組織である「フォーカス・オン・ファミリー」の指導者ドン・ホーデルは「この映画は歴史的にも、精神的にも正確である」と、メル・ギブソンを擁護しています。また、同じく保守派の「ナショナル・アソシエーション・オブ・エバンジェリカル」会長のテッド・ハガードも「この映画は今までのどのイエスの映画よりもイエスが誰であるのか正確に描いており、福音書と一致する」と述べています。

聖書論争は別にしても、この映画について賛否両論が巻き起こりました。リベラル派の雑誌「ニューリパブリカン」の編集者のLeon Wieseltier は「この映画は疑なく反ユダヤ主義の映画である」と書いています。ある評論家は、メル・ギブソンは「パッション」の中でイエスの死の責任はユダヤ人にあるという印象を何百万の人々に植えつけることを選んだと批判しています。もちろん「パッション」を賞賛する人もいます。ユダヤ人の中にも、積極的な評価をする保守的な人物もいます。たとえば、ユダヤ人の著名な評論家のデビッド・ホロウィッツやスティーブ・ワルドマンなどは、この映画を賞賛しています。

また、ユダヤ人問題以外にも次のような議論もあります。保守派を代表する評論家のロバート・ノバクは「この映画を巡る論争の焦点は表現の自由にある。正統派キリスト教徒に不快な思いをさせた映画『キリストの最後の誘惑』を擁護するリベラル派は、今度は『パッション』の検閲を求めている」と主張しています。

映画のプロジューサーでもあるメル・ギブソンは、「商業的な成功を求めてパッション」を保守的な人々にアピールしています。『ワシントン・タイム』紙は、メル・ギブソンがエバンジェリカルのキリスト教徒、保守的なカトリック教徒、オーソドックスなユダヤ人に積極的に売り込み戦略を展開したと伝えています。「パッション」と反ユダヤ主義を巡る論争が生じたことで、この映画は興行的に大成功を収めます。封切後、最初の5日間、毎日の興行成績は2500万ドルに達しました。

また、この映画が大統領選挙のなかで利用されたことも、問題を必要以上に大きくしたといえます。純粋なイエス論に留まらず、政治的プロパガンダとして利用されたのです。ブッシュ大統領の再選の原動力となったプロテスタントの原理主義者エバンジェリカルは、この映画の風儀気は自分たちにとって極めて重要な一瞬であると述べています。あるユダヤ教のラバイは「7500万人のエバンジェリカルのキリスト教徒にとって、この映画は2000年の歴史で最も偉大な作品である」と最大級の賛辞を送っています。

ここで話が終ったら面白くありません。なぜ、メル・ギブソンがリベラルの槍玉にあがったのかを知る必要があります。もちろん、映画の内容が”反ユダヤ的”ということもあるのでしょうが、同時にメル・ギブソンの政治的な立場、宗教的な立場も大きく関係しています。ジャーナリストのライハン・サラムは「ギブソンはハリウッドで最も良く知られたウルトラ保守派のクリスチャンである」と書いています。ハリウッドは、どちらかといえばリベラル派が勢力を持つ地域です。その中で、彼は数少ない保守派で、しかも「伝統主義者クリスチャン」なのです。さらに言えば、彼の父親八ットン・ギブソンは反ユダヤ主義の人物です。彼は、ホロコースト(大虐殺)は存在しなかったと信じている人物です。1965年のバチカン改革で、教会での説教の言葉をラテン語から日常語に変えられましたが、ハットン・ギブソンはそうしたバチカンの改革を厳しく批判しています。バチカン改革は、ユダヤ人と秘密結社フリーメイソンが仕組んだものだと信じている人物です。

メル・ギブソンも「伝統主義カトリック教徒」で、父親と共通した発想を持っているといわれています。ただ、本人は「自分は反ユダヤ主義者でもないし、親しい友人の中にユダヤ人もいる」と答えています。しかし、彼の政治的な立場は保守的で、中絶や同性愛は間違いであり、非道徳的であると信じています。ちなみに、同じハリウッドのシュワルツネガーは中絶や同性愛に対して肯定的な考えを持っています。また、メル・ギブソンは「伝統主義者カトリック運動」に資金を提供しています。伝統主義者は、父親のハットンに見られるように、バチカンに対して批判的な考えを持っています。メル・ギブソンのそうした宗教的、政治的な背景が、問題をより深刻なものにしたのかもしれません。

本ブログでは、「パッション」を映画としてどう解釈するかには触れませんでした。その背景にあるアメリカ社会、西欧社会の一端が、この論争を通して見えるのではないかと思っています。それと、メル・ギブソンの政治的立場、宗教的立場が映画の評価に影響するとは思いません。ただ、1つ付け加えると、アメリカの保守派のメディアMaxNewなどでは、まるで彼を保守派のシンボルのように扱っています。否応なしに、そうしたアメリカ社会の現実に彼も組み込まれていることは事実なのです。

この投稿には、まだコメントが付いていません

このコメントのRSS
この投稿へのトラックバック URI
http://www.redcruise.com/nakaoka/wp-trackback.php?p=65

現在、コメントフォームは閉鎖中です。