中岡望の目からウロコのアメリカ

2007/6/7 木曜日

忘れえぬ人:戦後の日本経済の枠組みを作った経済学者エレノア・ハドリーの訃報に接して

Filed under: - nakaoka @ 17:27

人生には、ほんの数回しか出会ったことがなく、また親密に話す機会がなかった相手でも、いつも鮮明に心の中に残っている人物がいます。エレノア・ハドリー(Eleanor Hadley)は、私にとってそんな存在です。最初に会ったのは1982年の冬だったと思います。ワシントンにある大学(正直、どの大学だったかも定かな記憶はありません)で開かれた日本経済に関する勉強会でした。私はボストンから、その勉強会に参加するためにワシントンまで出てきました。勉強会に政府機関から留学して来ている日本人の学生がいました。確か日本の消費に関する議論だったと思います。その男性が何かコメントしたとき、彼女が非常に厳しい口調で批判したのを覚えています。でも、その厳しい口調とは別に、聞いていて優しく諭すように「学問に対して誠実でなければならない」といった彼女の気持を感じることができました。2度目に会ったのは、それから4~5年経っていたでしょうか。東京のホテル・ニューオータニのロビーですれ違いました。特に懇意にしていたわけでないので声を掛けそびれましたが、今でもその時の様子を鮮明に思い出すことができます。ワシントンであったとき、もう60歳の半ばだったのではないかと思います。既に顔には深い皺が刻まれていました。そんな彼女の顔を見ながら、若いときは美人だったんだろうなと、ぼんやり思っていたことを、今でも覚えています。品のある女性でしたが、同時に厳しさを感じさせるところもありました。以前、ミルトン・フリードマン教授についてブログを書きました。本ブログは「忘れえぬ人(2)」です。

なぜこんなことを書いているかというと、今日、モルガンスタンレー証券のロバート・フェルドマン氏の秘書から電子メールが送られてきたからです。そのメールはフェルドマン氏や私が属している勉強会のメンバーに送られたものです。電子メールには「シアトル・タイムズ」の記事が添付されていました。その記事のタイトルは「エレノア・ハドレーは人生を圧力に立ち向かうために費やし、90歳で死亡(Eleanor Hadley spent her life standing up to oppression, dies at 90)」です。彼女は生涯独身で、引退後、シアトルに戻り、母親と暮らしているということは聞いていました。同記事は「自然死」であったと伝えています。6月1日、シアトルの病院で亡くなられました。おそらく日本の新聞でも、死亡記事は掲載されたのではないかと思いますが、私は気がつきませんでした。おそらく日本には彼女の知り合いや、彼女を賞賛する人はたくさんいるのではないかと思います。個人的に良く知っているわけでもありません。わざわざこのブログで私が何かを書く必要もないと思いますが、「こうしたアメリカ人女性がいたんだ」ということをブログの読者に紹介できればと思い、「シアトル・タイムズ」紙の記事を要約することにしました。

なお、グーグルのニュース検索をしてみたところ、彼女の死を報道したのは「シアトル・タイムズ」紙だけでした。戦後の日本の民主化に直接関わり、その後も日本研究者として高い評価を得た人物ですが、アメリカ国内ではほとんど報道されることもない忘れられた人物なのかも知れません。Wikipedia にも彼女に関する項目は存在しません。それだけに、このブログで少しでも記録を残せればと思っています。

ハドリーは1916年にシアトルに生まれました。父親(Homer Hadley)はエンジニア、母親(Margaret Hadley)はアメリカにおける幼児教育のパイオニアでした。オークランドのミルズ・カレッジの学生の時、東京帝国大学に留学する奨学金を得て日本に来ています。38年から40年に日本やアジア各国を旅行しています。同記事では、彼女は日本軍が大量殺戮を行なった南京に最初に訪れた西欧の人物の一人であると紹介しています。また同記事は従兄弟の「彼女は平和主義者として日本に行ったが、恐ろしい体制に対して立ち上がらなければならないときがあることを理解してアメリカに帰ってきた」という発言を引用しています。

帰国後、彼女はラトクリフ大学に入学し、経済学を専攻します。同大学は現在ではハーバード大学と一緒になっています。しかし、43年に国務省に採用され、日本経済の分析を担当します。政争が終わったとき、彼女は31歳でした。彼女はマッカーサー元帥に率いられたGHQ(総司令部)のスタッフとして日本にやってきます。日本にいる間に彼女が関わった政策は“財閥解体”でした。これは同記事には書かれていませんが、当時、GHQにはルーズベルト大統領のニューディール政策に携わった多くの理想に燃える若者がいました。彼女も日本を民主化するという理想を抱いて再度来日したと想像されます。この経験が、彼女を優れた日本研究家に育てたのではないかと思われます。

日本での仕事を終えて帰国した彼女は、47年にハーバード大学の大学院に入学します。それから彼女は新たに設置されたCIA(中央情報局)から勧誘を受けます。しかし、明確な理由がないまま、それは撤回されます。同記事によると、彼女の名前が“赤狩り旋風”でしられるマッカーシー上院議員のブラックリストに載っていたことが理由であることが、後年、明らかになります。日本やアジアでの経験から、彼女は共産主義者と見なされていたのです。その名簿から名前を削除し、名誉を回復さるために、彼女は戦い続けます。同記事のタイトル「spend her life standing up to oppression」は、おそらくそうした事情のことを指すのではないかと思います。

大学院を卒業後、マサチューセッツ州のスミス・カレッジやジョージ・ワシントン大学の教授に就任します。その後、国際貿易委員会(ITC)の前身である「アメリカ関税委員会(USTC)」や「会計検査院(General Accounting Office)」で働いた後、84年に引退し、生まれ故郷のシアトルに戻ります。私が当時聞いた話では、老母と一緒に生活しているとのことでした。

彼女は2002年に自叙伝「memoirs of a Trustbuster: A Lifelong Adventure with Japan」を出版しています。「シアトル・タイムズ」の死亡記事を読んで、早速アマゾンに注文を出しました。私の知るエレノア・ハドリーは、彼女のほんの一部分に過ぎません。しかも私の勝手な思い込みがあるかもしれません。彼女の自伝の解説に次のようなことが書かれています。「エレノア・ハドリーは彼女の時代を一方進んでいた女性である。ハーバード大学で経済学博士号を得るために勉強しているときに、日本の財閥に関する知識を買われてアメリカ政府に採用された。その後、日本占領中、マッカーサー元帥の重要なアドバイザーを務めた。彼女は日本では政界、財界から“trust-busting beauty”と呼ばれていた。1970年に『Anti-trust in Japan』を出版している」。”trust-busting beauty”と呼ばれたのは、彼女が財閥解体と独占禁止法の導入で重要な役割を演じたからだと思います。Beauty はまさに20歳代のハドリーは、先に書いたように間違いなく「美人」だったと思います。

アマゾンの解説はまだ続きます。彼女の政策は「日本により効率的で競争的な経済を与えるためであった」。独占禁止法に代表される戦後の競争政策は、国際化、自由化の前で大きく変わってきています。持株会社の禁止は独占禁止法の大きな柱の1つであったが、いまや日本企業は持株会社ブームです。現在、企業組織、産業組織のbackrushが始まっています。そんな日本を、彼女はどう見ていたのでしょうか。

3件のコメント »

  1. エレノア・ハドリーさんをはじめて知りました。
    ヘレンケラーさんんもそうですが、理想をもって日本にきて活動された人達がいたんですね。
    なげ財閥解体にエレノアさんが取り組んだのか興味深いものがあります。

    コメント by あゆ — 2007年7月17日 @ 11:31

  2. エレノア・ハドリーさんをはじめて知りました。

    「日本にいる間に彼女が関わった政策は“財閥解体”でした。これは同記事には書かれていませんが、当時、GHQにはルーズベルト大統領のニューディール政策に携わった多くの理想に燃える若者がいました。彼女も日本を民主化するという理想を抱いて再度来日したと想像されます」
    ヘレンケラーさんんもそうですが、理想をもって日本にきて活動された人達がいたんですね。
    なげ財閥解体にエレノアさんが取り組んだのか興味深いものがあります。

    コメント by あゆ — 2007年7月17日 @ 11:35

  3. 45歳でワシントン大学の現役学生をやっているシングルママです。
    今日、エレノアさんを個人的にお付き合いがあったワシントン大学教授のパイル氏から彼女のことを聞きました。
    彼女の住んでいる町には娘のピアノの先生がいたので、毎週通っていました。
    娘はアフリカ黒人とのハーフで、小学校でもまったく気にもとめられない生徒だったのですが、老婦人の白人女性であるピアノの先生は、「彼女は頭がいい」と何度も褒めてくれました。それから娘にも勉強に励むようになり
    今年見事に競争率の高いワシントン大学に合格しました。
    エレノア女史があの頃、近くに住んでいたのかと思うと会えなかったのが残念です。
    私が45歳にして11年間勤めた航空会社を辞めて大学生になろうと決めたのは、去年なくなった父がしきりに「大学だけは行け」と言っていたのをずっとおぼえていたからです。そんな父は大正時代に農家の息子として生まれましたが、働き者の母親の支えで大学に進み、戦争が終わりにさしかかったころ、学徒出陣で参加したにもかかわらず、大学生だったため戦艦に乗る許可がおりず、戦死を避けることができました。
    なんだか話がそれましたが、エレノア女性のお話を是非聞きたかったです。。
    テレビや雑誌でいろんな情報が氾濫していますが、私達の知らない壮絶な歴史を生きた人の生の声を聞けることほど尊い経験はないと思います。

    コメント by シアトル住人 — 2008年4月18日 @ 13:43

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