中岡望の目からウロコのアメリカ

2005/10/5 水曜日

アメリカにおける「進化論」を巡る論争再論(2):インテリジェント・デザイン論の背後にある宗教的、政治的、社会的な問題

Filed under: - nakaoka @ 0:19

「インテリジェント・デザイン」に関する9月のブログは多くの人に読まれました(5月にも同じ問題をブログで取り上げていますので、そちらも参照してください)。その歴史的背景については、(1)でかなり詳細に分析しました。しかし、それで議論の全貌が理解できるわけではありません。その背後にある政治的、社会的、宗教的な問題を理解して、初めてアメリカにおけるインテリジェント・デザインを巡る問題の本質が理解できるようになるのではないかと思います。また、本ブログで若干触れますが、教育の現場でインテリジェント・デザインが議論の的になっているのは、アメリカだけではありません。感情的になるのではなく、冷静にこの議論を理解することで、アメリカ社会のもう1つの側面を理解できるようになるのではないかと思います。科学的な側面を巡る議論は本ブログの範囲を超えるので、専門家に任せることにします。相変わらず仕事に追われ、大学院のクラスの準備で多忙を極めており、新しい記事をなかなかアップできません。今、手元に何本か書きたいテーマがありますが、少しずつ時間をみて書いていくつもりです。なお、最後の部分にPSとして最近見た映画についてのコメントも書いておきました。

インテリジェント・デザインを巡る議論は2つの側面があります。1つは、進化論に対立する“理論”として有効なのかどうかという問題と、もう1つは学校で科学の時間に教えるべきかどうかという問題です。ブログ(1)では、アメリカの学校で進化論を教えるべきかどうかを巡る裁判の経緯について説明しました。アメリカのインテリジェント・デザイン論争の背後にある政治的、社会的な要因を見る前に、アメリカ以外の国について調べてみることにします。オーストラリアでも、アメリカと同様な議論が起こっています。南オーストラリア州では、公的な規制を受けない私立学校では進化論と同時にインテリジェント・デザインを教えているところもあります。現在、97の私立学校でインテリジェント・デザインを教えているそうです。そうした学校は「インテリジェント・デザインを教えることは生徒に批判的な思考力を発展させるために有効であるからだ」と主張しています。

これに対して「南オーストラリア科学教師協会(South Australia Science Teachers Association)」は、「インテリジェント・デザインは信念であって、科学ではない」との立場から科学のカリキュラムに含めるべきではないと反論、「インテリジェント・デザインは測定したり、検証することができない証拠に依拠した信念であり、科学の一部とは見なすことができない。インテリジェント・デザインを科学のコースや科学の教科書に含める適切ではない」と主張しています。ただ、その一方で「宗教のクラスで教えることは可能性である」とやや譲歩していますが、あくまで科学と宗教、道徳との間に一線を引くべきであると主張しています。インテリジェント・デザイン論の批判者は、進化論とインテリジェント・デザインの間に大きなギャップが存在しており、そのギャップを“God of the gaps”と呼んでいます。

最近、インテリジェント・デザインあるいは反進化論が盛んに議論されるようになった背景には、「生命をどう考えるか」が重要な問題になっているからです。遺伝子工学の発展やクローン技術の開発、基幹細胞を巡る議論などが大きな政治・社会問題にもなっており、それが「生命をどう理解すべきか」という倫理的・宗教的な問題を喚起しているからです。これらの問題には純粋に科学的な立場では説明しきれない倫理問題も含まれており、あらためて生命の意味を考えなければならなくなっているのです。「インテリジェント・デザイン(=神)が生命と作った」とする立場からいえば、そうして生命や細胞を操作の対象にすることは許されないことなのです。「生命は複雑で、不可思議である。単純な進化論から生命が誕生したと考えるのは単純すぎる」とインテリジェント・デザイン論者やクリエーシニスト(霊魂創造論者者)は主張しています。とすれば、生命の誕生には何かの“意思”が働いたはずである、ということになります。もし、超越的な意思によって生命が創造されたのであれば、生命に対する扱い方は異なってこなければならないということになるのでしょう。生化学者のマイケル・ベーヘ(Michael Behe)は、彼の著書『Darwin’s Black Box』の中で、「進化論が主張するように生命システムは漸進的に発展することはできない」と主張しています。

前のブログに書いたように、ブッシュ大統領が「インテリジェント・デザインと進化論を一緒に教えることが適切である」と記者団に答えたことで、この論争が大きな関心を集めるようになったのです。また、政治的には昨年の大統領選挙でキリスト教右派が勝利したことで、インテリジェント・デザインの議論が勢いを得ていることも、この問題が注目されるようになった要因の1つにあげることができるでしょう。キリスト教原理主義者は、進化論に留まらず、「政教分離」も建国の父たちが想定していたものではないと憲法の基本に対する異議申し立ても行なっています。

進化論者は、先のブログで触れたように一般市民の中でもインテリジェント・デザインを信じる人がかなりの数にのぼっていることで脅威を感じ、明確にインテリジェント・デザインに対する立場を明確化しようとしています。特に初期の頃の反進化論と違い、インテリジェント・デザインは“科学の言葉”を使って巧妙に進化論に立ち向かっていることもあり、単に信念の問題、宗教の問題であるとインテリジェント・デザイン論の広がりを座視できなくなっている面もあります。さらに、その社会的な基盤も極めて強固になっています。インテリジェント・デザインを主張する拠点になっている「ディスカバリー・インスティチュート」のベンジャミン・ウィッカー(Benjamin Wiker)は「ダーウィニズムから離脱する科学者の数は増えている。そうした科学者は、進化論がイデオロギーであることを理解するようになったからである」と書いています。また同インスティチュートは、進化論に反対する科学者400名の署名を集めています。

本論に入る前にもう1つ触れておきたいことがあります。それは、インテリジェント・デザインは聖書をベースとする“生命理論”であり、必ずしも世界にある様々な宗教と共有する価値観ではありません。とすると、他の宗教との関係をインテリジェント・デザイン論者は、どう見ているのでしょうか。インテリジェント・デザインを公立学校で教えるべきだと主張しているペンシルバニア州ドーバー郡の教育委員会委員長のウィリアム・バッキンガムは「アメリカはイスラム教や進化論に基づいて建国されたものではない。アメリカはキリスト教に基づいて建国されたものである。したがって、アメリカの生徒たちはインテリジェント・デザインを教えられるべきである」と答えています。要するに、人種の多様性、文化の多様性は認めても、宗教の多様性は認めないというのが、彼らの主張のようです。

余談ですが、教育委員会がどの教科書を使うのかを決めることができるのですが、それはちょうど東京の杉並区の教育委員会で行なわれた歴史教科書の採択を巡る争いと似ています。教育委員会では「新しい日本を作る会」の歴史教科書の採用を巡って委員の投票は2対2に割れました。最終的に教育委員長の判断で、多くの教師が反対しているにもかかわらず同教科書の採用が決まりました。その時、感じたのは、「教育委員会とは一体何か」ということです。以前は、教育委員会は「公選制」でしたが、いつの間にか「任命制」になりました。また文部省による教科書の検定もいつの間にか当然のことになっています。こうした重要な事項を決定する教育委員会の委員に、誰が、どのような権限を与えているのでしょうか。委員たちは、どのような主体性を持っているのでしょうか。彼らの資質や資格に関して誰がチェックしているのでしょうか、そんな疑問を持ちました。インテリジェント・デザインを教えるべきかどうか議論しているアメリカの教育委員会と、歴史教科書を巡って議論が行なわれている日本の教育委員会の間には、何か類似性があるようです。

前置きが長くなりました。今回はインテリジェント・デザインが主張されるアメリカの政治的な状況について書いてみたいと思います。ペンシルバニア州ドーバー郡の教育委員会でインテリジェント・デザインを教えるべきかどうかを巡って議論が行なわれました。2004年8月に教育委員会で投票が行なわれ、6対3で「生徒はダーウィン理論とインテリジェント・デザインを含む他の進化論の間にあるギャップと問題について知るべきである。他の理論は、インテリジェント・デザインに限定されるものではない。ただし『種の起源』は教えてはならない」という決議を採択しました。この票決後、二人の委員は抗議の意思表示として辞任しました。さらに同教育委員会は、生物学の教師に進化論を教える前に以下の文章を読み上げることを義務付けました。「ダーウィン理論は1つの理論であり、新しい証拠が発見されれば、それに基づいて検証されなければならない。ダーウィンの理論は“事実”ではない。インテリジェント・デザインはダーウィンの見解とは異なる生命の起源に関する説明である。生徒がインテリジェント・デザインに実際に何が含まれているかを知りたいと思ったとき、その参考文献として『Of Paradise and People』を使用することができる。どんな理論が真実であっても、生徒は開かれた心を持つように奨励されるべきである(encouraged to keep an open mind)」。生徒に“オープンマインドを持つように奨励する”と、もっともらしい説明を加えていますが、もちろん本音は別のところにあります。

こうした教育委員会に対して、8名の生物学の教師が「インテリジェント・デザインは科学ではないし、生物学でもない」とする書簡を教育委員長に送りました。さらに、授業の前に先の文章を読むことに反対し、そうした行為は「意図的に教える課題あるいはカリキュラムを歪めることになる」と主張しました。しかし、教育委員会は教師の主張を無視し、2005年1月に副教育委員長が教室を訪問して、その文章を読み上げました。副委員長が文章を読んでいる間、教師と生徒は教室の外に出るという行動と取ったのです。そして、最終的に父兄が教育委員会を訴えて、この問題は法廷の場に持ち出されることになりました。まさに、形を変えた1923年の「スクープ・モンキー裁判」の再現となったのです。訴訟を起こした父兄は「インテリジェント・デザインを教えるという方針は政府の宗教への過剰な関与であり、強制的な宗教教育であり、1つの宗教的見解を他の宗教の見解よりも優先するものである」ので、教育委員会に取り消すように求めたのです。

こうした状況の中で8月にテキサスで記者団にこの問題に関して質問されたブッシュ大統領は「インテリジェント・デザインは公立学校で進化論と一緒に教えるべきである。なぜなら、生徒に異なった考え方を教えることは教育の一部であるからだ」と答え、結果的にドーバー郡での裁判に対する自らの立場を明らかにしたのです。それが、さらにインテリジェント・デザインを巡る論争に油を注ぐことになりました。初期の聖書に基づく反進化論の主張と違い、インテリジェント・デザインははるかに巧妙に“科学”の衣をまとい、理論武装しているのです。また、進化論を否定するのではなく、進化論と共に教えるべきだという巧妙な戦略の成功を収めつつあるのです。

そうした動きの背景に、明確なイデオロギーをベースにした運動の展開がありました。初期の頃の運動と違い、インテリジェント・デザイン運動をリードしたのは“科学者”たちでした。彼らは研究所などに属して活動を展開し、その理論に信憑性を与えることに成功したのです。もし聖職者が中心に運動が展開していれば、一般の人々のインテリジェント・デザイン論に対して違った印象を抱いたでしょう。しかし、学界や社会で評価されているような科学者が、運動の中心になったのです。もっとも熱心なインテリジェント・デザイン論者のフィリップ・ジョンソン(Phillip Johnson)はカリフォルニア大学法学部教授であり、先に触れたマイケル・ボーへはリーハイ大学の生化学の教授、ウィリアム・デンブスキー(William Dembski)は南バプティスト神学大学の数学と哲学の教授、ジョナサン・ウエルズ(Jonathan Wells)はカリフォルニア大学で生物学の博士号を持っている人物です。

組織体としては、これも先に触れた「ディスカバリー・インスティチュート」がインテリジェント・デザイン論を“布教”する拠点となっており、同組織の下にシアトルにあるシンクタンク「センター・フォー・サイエンス・アンド・カルチャー(CSC)」があります。CSCは、その使命を「科学的唯物論とその破壊的な道徳的、文化的、政治的な遺産を撃破し、唯物的な説明を神が自然と人間を創ったという理解に置き換えること」と説明しています。その思想を体系的に説明したのが、先に触れた本『Of Paradise and People』です。ドーバー郡教育委員会がインテリジェント・デザインを理解する参考文献に挙げた本です。

インテリジェント・デザインを主張する人は、一体何が目的でそれを主張しているのでしょうか。科学として進化論を否定しようとしているのでしょうか。確かにそうした一見科学的な議論も行なわれていますが、彼らが意識している問題はどうも違うところにあるようです。多くのキリスト教原理主義者は、超自然的な存在を否定する「自然主義」や「物質主義」は人間の道徳の敵であり、人間の本性に背くものであると考えています。彼らにとって、進化論はまさにそうした人間性を否定する典型的な理論なのです。ジョンソンは「神を文化的に決定された想像上の存在であるとすると、神の持つ道徳性は根拠を失なってしまう」と語っています。進化論は、創造主としての神の存在を否定し、さらに神そのものが文化的、精神的な行為の結果生まれた創造上の存在であるという論理に結びつくのです。ですから、神の存在を認めるためには、進化論を否定する必要があるのです。

CSCの研究員ナンシー・パーセイは「自然主義的な進化を科学のクラスで教えれば、倫理に関する自然主義的な見解が歴史のクラス、社会学のクラス、そして家族生活のクラスで教えられ、やがて全てのカリキュラムで教えられることになるだろう」と語っています。科学のクラスで進化論を阻止することが、学校教育の全体のカリキュラムに影響を及ぼすことを恐れているのです。さらに進化論を学ぶことは、キリスト教原理主義者が子供たちに教えようとしているキリスト教の価値観を台無しにしてしまうことを恐れているのです。インテリジェント・デザインを学校で教えるというのは、いわば彼らにとって進化論を阻止するための“トロイの馬”なのです。「進化論とインテリジェンス・デザインを平行して教えることは、生徒に批判的な思考をさせることになる」という議論は一種の方便であり、最終的に学校教育から進化論を排除することが、彼らの真の目的なのです。

PS:以前、日本映画について書いたブログの最後に推薦アニメとして12チャンネルの「ガラスの仮面」を上げました。10月5日放映の同アニメを見て、明らかに絵が変わりました。随分ひどい絵になり、それまでの緊張感がまったくなくなりました。おそらくテレビ局か制作会社がコスト面から安い会社に下請けに出したのでしょう。実にひどい絵になっています。したがって、以降は「ガラスの仮面」の推奨を取り消します。ただし、原作はアニメよりもはるかに面白いので、それに関しては、依然、推薦します。

PS2:映画に関連して、ひとこと。映画「忍び」を見ました。やっぱりガッカリしました。まず、この映画は中国映画「ラバーズ」を意識して作ったのでしょうが、「ラバーズ」の足元にも及びません。また、忍びが徳川家康に許しを請い、生き延びるというストーリーは本当に山田風太郎の原作とおりなのでしょうか。忍びが体制に媚びるなって、考えられません。また、中国映画「セブン・スオード」を見ました。「7人の侍」を意識して作った映画だと思います。娯楽映画としては合格です。同じように「7人の侍」を意識して作られたと思われる韓国映画「武士」も非常に面白い映画でした。「忍び」を見ながら、もう日本では、こうしたスケールの大きい映画は作れないのではないかということと、相も変らぬ特写の下手さに、幻滅しました。これも海外市場を意識して作られたようですが、おそらく失敗だと思います。なぜ、もっと真剣に脚本を練り上げないのでしょうか。日本映画の基本的問題は、監督が作る映画の数が少なすぎるのではないかと思います。駄作でもいいからたくさん作らないと、本当に良い映画は作れないのかもしれません。

4件のコメント

  1. ID派は、「生物」の授業でIDを教えなさいと言ってるのですよね。「実証・再現できないものは事実ではない」、「観測されないものは存在しない」という科学の大原則と、どう整合性を保たせてIDを教えているのでしょう?

    コメント by ゆ — 2005年10月9日 @ 20:28

  2. インテリジェントデザイン Intelligent Design

    25日の日記
    起床9時20分。寝すぎた。朝食は林檎1個、ヨーグルト。昼食は近くのお気に入りラーメン屋で醤油ラーメンと三色丼(チャーシュー、メンマ、味玉子入り)。夕食はご飯、納…

    トラックバック by ♪四畳半シンガーあべちゃんの歌日記 — 2005年11月26日 @ 03:12

  3. [...] ‚≪ƒ<ƒ‚Š‘‚‹€Œ€峨Œ–茫–€‚’綏<‚‹茫–篋‰†茫–鐚ˆ2鐚‰鐚š‚ゃƒ潟ƒ†ƒ‚吾‚сƒ潟ƒˆƒ祉ƒ‡‚吟‚ゃƒ活– ƒŒ緇Œ‚‚‹絎—•™š„€”炊音š„€腓鞘šš„•馹Œ … €€Œ‚ゃƒ潟ƒ†ƒ‚吾‚сƒ潟ƒˆƒ祉ƒ‡‚吟‚ゃƒ潟 篆≦慎с‚c€腱‘絖с„€‹眼‹‚‰腱‘絖‚ƒ‚㏍ƒャƒƒ‚‚‹鴻с„ … €峨Œ–茫–€…€…ˆƒ–ƒ㏍‚違цЕ‚ŒŸ‚ˆ†€ˆ‚羂‘賢с‚‚‚ゃƒ潟ƒ†ƒ‚吾‚сƒ潟ƒˆƒ ƒ‡‚吟‚ゃƒ潟‚’篆<˜‚‹篋冴Œ‹‚Š•違若c„‚‹ … ‚ゃƒ潟ƒ†ƒ‚吾‚сƒ潟ƒˆƒ祉ƒ‡‚吟‚ゃƒ潟‚’ •™ˆ‚‹鴻‹†‹茘域–—„‚‹‚≪ƒ<ƒ‚•™‚峨”“>š€罩翫兊•™腱‘›吾‚’綏<c⑯茫–Œ 茵Œ‚Œ … http://www.redcruise.com/nakaoka/?p=147 [...]

    ピンバック by ‚ƒ‚㏍ƒャƒƒ茫–篋‰€•‚≪ƒ<ƒ‚€ˆ•™‚蚊⑳| c†‚ˆƒ–ƒ㏍‚ — 2009年7月18日 @ 05:07

  4. [...] http://kobachan.exblog.jp/2839547 http://www.redcruise.com/nakaoka/index.php?p=147 http://www.aba.ne.jp/~sugita/147j.htm 結局、教育は国家戦略なのだなぁと思う。 [...]

    ピンバック by 「インテリジェント・デザイン」とは何ぞや? | スタジオ大四畳半 — 2011年8月11日 @ 12:38

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